goo

9・11テロ事件 NY国連本部

 『生まれ変わっても国連』より 9・11テロ事件
 二〇〇一年九月一〇日、東四七丁目にあるジャパン・ソサエティーのとなりのホーリー・ファミリー教会で、ニューヨークに赴任して初めて国連総会開催を祝う特別礼拝に臨んだ。そして、翌日から始まる国連総会の成功をアナン事務総長夫妻、国連総会議長らと祈った。
 その翌日の九月一一日、いつものように午前八時前から執務室で仕事を始めた矢先、「小さな飛行機がワールドトレードセンタービルに突っ込んだらしい」と部下のカテヤ・タボーリアンが飛び込んできた。急いでテレビをつけてみると、リアルタイムで二機目の大型ジェット機がもう一つのワールドトレードセンタービル(WTC)に突っ込む直前の映像が目に飛び込んできた。そして次の瞬間激突した。それはまるでスローモーション画像を見ているようであった。
 真っ黒な煙をモクモクと吹きあげるツインタワー。つぎつぎと、これまで見たこともなかった光景が目に飛び込んで来る。逃げ場を失った人々がビルから飛び降りる光景に、私は肝をつぶした。そしてその後まもなく、二つの高層ビルはいとも簡単に下方から崩れ去っていく姿をテレビは映し出していた。それは現実とは思えず、仮想の画面を見ているかのようだった
 その光景をみて私は、部下のカテヤの語った「最初の一機」も事故ではなく、故意に突っ込んだ「自爆テロ」だと察した。すると時を移さず、部下のマイケル・マッキャン警備部長が、アメリカ当局からの連絡でこの事件が「テロ」によるものであることを伝えてきた。そこで私はすぐに国連事務局ビルー階のイースト川に面した国連警備部室へと向かい、ニューヨークの「国連ビルもテロの標的になっている可能性もある」とのことで駆けつけてきたニューヨーク市警察とFBI担当官と国連による「合同事故対策本部」を設置した。そこにリザ官房長とコナー事務次長も加わり、すぐさま緊急対策に着手した。
 まず、命令系統を簡素化し、[リザ官房長-私-マッキャン警備部長]と一本化し、出勤前のアナン事務総長に「自宅待機」をお願いした。さらにニューヨーク在住のユニセフ、国連開発計画、国連人口基金などのリーダーと連携を取り、すでに出勤していた職員と各国代表団職員を地下一階の会議室に集めた。そして出勤してきた幹部職員に集まってもらい、事態を説明し、緊急必要要員以外は即刻職場を放棄し、帰宅するよう指示した。その後も、アメリカ当局から逐次入ってくる情報をもとに、安全管理体制の徹底に務めた。
 こうした緊急状況下で、当時の国連ビルがいかに非常事態に対する備えがないかが改めて思い知らされた。まず、一九五〇年代に建築された国連ビルにはしっかりと機能する緊急事態用のアナウンス装置はなく、職員誘導も係員が各階に赴いて口頭で退避を促さなければならなかった。さらに火事に備えた散水装置もなく、防火壁も整っておらず、万が一国連ビルがテロの標的になった場合にはまったくの〝お手上げ〟状態であった。私はそうした状況のなかで緊急体制を維持しながら、その後も数日間、他の職員と職場で寝起きしながら災害対策に当たった。         、。
 その翌日の九月一二日、特別国連総会が開催され、この「9・11」テロに関する特別決議案を採択した。さらに国連安全保障理事会も、このテロ行為を弾劾する決議案一三六八号を採択した。いつもと違い、車を使わず徒歩で静かに総会に集まった各国代表団の姿が印象的であった。
 9・11のちょうど一週間後、九月一八日、ルドルフ・ジュリアーニ・ニューヨーク市長とジョージ・パタキ・ニューヨーク州知事からの招待で、「グラウンド・ゼロ」をアナン事務総長、リザ官房長、ギリアン・ソーレンセン広報担当事務次長補、マッキャン警備部長とともに訪れた。ハドソン川経由の船で近くの船着場に降りたとたん、アナン事務総長と、それまで〝国連嫌い〟で通っていたジュリアーニ市長が無言で抱き合った。このテロにより、いままでのニューヨーク市長と国連とのわだかまりが一瞬取り除かれたかのような光景であった。
 思い起こすと、近年、国連とニューヨーク市当局との関係は総じて冷たくなっていた。この背景には、パレスチナ解放機構(PLO)支持を表明する国連総会決議に対し、ユダヤ系市民の多いニューヨークの市長として違和感を持っていたであろうことと、ニューヨーク市内で外交特権を乱用し、駐車違反をくりかえしたあげく、罰金を滞納するいくつかの国連加盟国外交官に心証を害したことから、徐々に反国連ムードが拡がったものと思われた。
 一九七八年から一九八九年までニューヨーク市長をつとめたエド・コッチは有名な〝国連嫌い〟で、国連のことを「肥溜め」と呼んだほどだった。一九九〇年から一九九三年まで市長を務めたディビッド・ディンキンズは比較的穏健派かつ国連支持派で、一〇月二四日の国連記念日には市長公邸に加盟国国連大使と、私を含め国連幹部職員を招待した。一九九四年から二〇〇一年まで市長をつとめたルドルフ・ジュリアーニはまったくの国連嫌いで、国連総会関連行事一環の音楽会に出席していたPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長をその会場から名指しで追い出すといった極端な行動に出たほどだった。
 九月一八日の時点ではまだ「捜索と救助」を続けているという建前であったが、生存者が皆無であることは誰の目にも明らかだった。「グラウンド・ゼロ」(ワールドトレードセンター跡地)の臭いは、一九四五年八月六日、原爆投下後の広島市で目にした全崩壊の光景と臭いを思いおこさせた。原爆被爆者のただれた火傷から漂ってきた臭いと、死体を集団荼毘に付した旧日本陸軍練兵場から漂っていた臭いとまったく同じであった。
 その数日後、ジュリアーニ市長は国連総会に特別招待され、ニューヨーク市長として異例の総会演説を行なった。「国連と五〇〇〇人以上(注八最終結果では死者二九九六人、けが人六〇〇〇人)の犠牲者を出したニューヨーク市にとって9・11テロは共通の憂るうべき出来事である」としたうえで、「国連はこうしたテロ行為をサポートするいかなる国家に対しても説明責任を求め、テロ行為を弾劾しないかぎり平和維持者としての国連の基本的役割をまっとうできない」とし、「あの破壊、大規模な無差別かつ残酷な人命損失を正視したうえで、テロ問題に関して中立を維持することはまったくできないことを認識すべきである。あなたたちは文明の側に立つか、それともテロリストの側に立つかのどちらかである」と訴えた。
 「9・II」の当日、次女の絵里香は「ワールドトレードセンター」のすぐ近くの職場であるNGO団体「グローバルーキッズ」でテロに遇っていた。私はすぐさま彼女に携帯電話で連絡を試みたが、通じなかった。彼女は、プラスチックの焼けたような異臭と粉塵の舞い上がる町並みを多くの人たちと一緒に歩き抜き、咳き込みながらイースト川を隔てたブルックリンの自宅まで徒歩で帰宅したということであった。妻のジェーンはコネチカット州グリニッチにある公立小学校で教えていた最中にこのテロのことを知ったという。もちろん生徒・先生とも無事であったが、9・11テロで親を失い、気落ちした子供たちの心の支えに腐心したそうである。私は後日、ヤンキースタジアムで行なわれた合同礼拝にリザ宣房長と国連儀典長ナディア・ユニス(二〇〇三年八月一九日テロによる国連バクダッド事務所の爆破事件でセルジオ・デメロ事務総長特別代表とともに爆死)とともに国連事務局を代表して出席し、亡くなった方々の冥福を祈った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« アレクサンド... これからの哲... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。