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立松和平の文学 遺されたもの

『立松和平の文学』より 遺されたもの 「書くことは生きること」

立松が逝って遺された小説の一つ『白い河-風聞・田中正造』は、立松の生涯にわたるテーマのひとつ「足尾」に関わる作品であるが、その終わりは鉱毒事件を起こした足尾銅山(古河市兵衛)の後援者であった明治政府に、田中正造と共に「大押出し」(抗議デモ)という形で敢然と立ち向かった谷中村村民の一人が、「日露戦争」に動員される次のような場面になっている。

 満州方面の戦報は連隊にしきりに伝えられてきたので、大六たち兵卒もよく知るところであった。(中略)

 そしてついに動員下命があった。

 連隊は練兵場に整列し、大元帥閣下万歳を三唱して進軍を開始した。予備隊の大六も野戦隊に従って出発したのである。連勝といっていたはずなのに戦地では激戦が伝えられ、兵力の消耗が激しく、予備隊といっても何時最前線に投入されるかわからなかった。連隊から高崎駅まで日の丸の小旗を打ち振る人の列が幾列にもなって途切れなくつづき、幼稚園児や小学校児童が軍歌を合唱していた。

  「兵隊さん、頼むぞーっ」

  「手柄を立てて帰ってこいーっ」

 歓呼の声の中にひときわの大声が響き渡った。高崎駅のまわりは大群衆が取り囲み、軍歌を声を合わせて歌っていた。歌いながら泣いている人もたくさん目についた。まわりの兵と手足の動きも表情もあわせながら、大六は鉱毒反対運動ではこれらの人と戦っていたのだと気づいた。これは恐ろしいことである。まわりの熱気とは裏腹に、大六の血は凍りついていくように感じられた。戦争に狂奔する大衆の耳には、田中先生や自分たちが鉱毒被害をいくら訴えたところで、その声は届きそうもない。それどころか逆に自分たちに襲いかかってきそうである。

この引用がよく示すように、遅れて成立した近代国家である日本は、欧米帝国主義列強に互したいという「民衆(国民)」の感情を巻き込みながら、朝鮮半島はじめ中国大陸やアジアヘの「侵略」政策を強行に進めていた。満州方面(中国東北部)へと向かう軍隊(高崎一五連隊)を歓呼の声を持って送り出す民衆が、「鉱毒反対運動」を行って自分たちと敵対する存在であったという言い方は、「大衆」というものがいかに「反体制少数派」に対して「敵」として現前してくるかをよく知った者の言と言わねばならない。六〇歳を超えた立松であったが、このような反体制運動の原理を学生時代(全共闘運動体験)に学び、この『白い河』において生かしたのだと思われる。否、立松の内部であの一九七〇年前後の「政治の季節」の体験は「四〇年間」生き続けていた、というわけである。そのように考えるのも、近代社会の成立以降、日清戦争に始まる日本の「侵略戦争」に関して、武器(弾丸や兵器)の原料である銅の生産によって深い関わりを持ってきた「足尾」にこだわり続けてきた立松の内部を忖度してのことであった。

六〇歳を超えた立松は、一方で『人生のいちばん美しい場所で』のような「老い」や「死」を意識した作品を書きながら、他方でこの『白い河-風聞・田中正造』のラスト部分が示すように、団塊の世代(全共闘世代)の作家としてあくまでも「反戦」を底意に潜めた作品を書き継いでいた。この「仏教」小説と「老い」や「世代の責任」に関する小説という二方向の作品を書くという姿勢は、立松が生き続けていたとしても変わらなかったのではないか。なお、『白い河-風聞・田中正造』のラスト一シーンに関して言えぼ、この部分は夏目漱石が聞き書きとして世に送り出した『坑夫』(一九〇八・明治四一年)とは違った形で、鉱山労働者(坑夫)たちの待遇改善・権利拡大要求に端を発した「足尾暴動事件」(一九一七年二月)をいつか書きたい、と願っていた立松の思いに繋がるものだったのではないか、と思われる。というのも、立松は「足尾暴動」に参加した鉱山労働者を主人公とした労働文学作家宮嶋資夫の『坑夫』(一九一六・大正五年)に深い関心を寄せていたことからも分かるように、「足尾暴動」に関する資料をたくさん収集していた。そのことから推測すれば、おそらく立松の「足尾」に関わる一連の物語は、「足尾暴動」を描くことで完結するものではなかったか、と思われる。 

さらに言うならば、『白い河-風聞・田中正造』の終わりが、先の引用のように「日露戦争」へ出征する谷中村村民の反戦意識・反公害闘争に対する「総括」になっていることとの関連から、立松は日清・日露戦争に始まる「中国侵略」の歴史に連なる「父横松仁平」の中国生活(商社員として山東省済南市にあった商社に勤務。そこで故郷の宇都宮で結婚した妻との生活を始める)を中心とした物語を書きたかったのではないか。つまり、立松の父親は中国山東省の済南で現地召集を受け、妻を宇都宮に帰して中国東北部(旧満州)で兵役に就いたところで敗戦を迎え、そのあとソ連軍の捕虜となるも辛うじて脱走し、宇都宮へ帰還し立松及び弟を設け、典型的な戦中派として生きた。立松は、そんな父親の軌跡をモデルとした「父の物語」を書きたいという願望をずっと持ち続けていた。『遊行日記』や『いい人生』所収の「父の戦い」、「父、難民となる」、「父のこと、母のこと」、等々のエッセイが私たちに示唆するのは、立松がいかに「父・横松仁平」をモデルにした「戦争の物語」を切望していたか、ということである。
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