未唯への手紙
未唯への手紙
21世紀憲法 Human Rights
『憲法学教室』より 21世紀憲法学へのキーワード
「国」の枠組みを離れて
20世紀が始まった頃、地球上にあった「国家」は60カ国ほどであった。100年後のぃま、それが3倍以上に増えている。その意味で、20世紀は「国家」の世紀でもあった。そして、その「国家」は、国境線で区切られた一定の領域をもち、主権をそなえ、その構成員(国民)が「ナショナル・アイデンティティ」を共有している「国民国家」として存在してきた。この「国民国家」が、第1次大戦後のハプスブルク帝国およびオスマン帝国の解体、そして第2次大戦後の「脱植民地化」によって、世界全体を覆うこととなったのであった。
「国民国家」は、「国家」というものを、人々のアイデンティティの一つの重要な表徴とした。とりわけ第2次大戦後の「脱植民地化」の動きは、自前の国家建設によるアイデンティティの回復(ないし確立)という意味において、「人民解放」としての積極的な意味をもちえた。こうして、「国家」の重要性は、疑う余地のないもののようにみえた。「国家」という枠組みは、私たちの思考の枠組みにもなったのである。
しかし、いま、21世紀を前にして、「国家」は、あるいは「国」という枠組みのなかでの思考は、地球人類の未来を奪いかねないものになろうとしている。たとえば、日本では、いわゆる少子化か重大な問題となっており、このままでは日本の人口は先細りになり国が衰退するから、なんとか子どもを増やすような政策を考えるべきだ、といった議論がある。たしかに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えれば、そういう議論になろう。しかし、日本では少子化による人口減という問題が起きているが、世界全体では、毎年8000万人という爆発的な人口増加が重大問題となっているのである。このままいけば、21世紀の前半には、世界の人口は100億人に近づくといわれている。地球の「人類扶養能力」の限界を超えかねない事態が、間近に迫っているのである。そういうときに、この地球規模の問題にいかに対処するかという観点ぬきに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えて、人口増加をはかろうというのは、文字どおり愚の骨頂である。
あるいは、地球環境問題も、資源・エネルギー問題も、食糧問題も、すべて、しかりである。自国の利益、あるいは自国の経済・産業の発展というような、「国」の枠組みにとらわれた考え方では、いま私たちが直面しているこれらの地球規模の問題は、解決できないばかりか、ますます深刻化し、そんなに遠くない時期に、私たちじしんの生存を脅かすこととなろう。「国」の枠組みを離れて考えることが、いま、緊急に求められているのである。
これらの地球規模の問題の大きな要因となっており、あるいはそれらの問題の解決を遅らせる要因となっているのは、いわゆる「北」側先進工業国の過剰ともいえる物質的「豊かさ」と、他方、いわゆる「南」の発展途上国の深刻な貧困という、世界規模の不公平な配分である。現在、日本を含む「北」側先進国のGNP総額は、世界全体のそれのおよそ80%程度を占めるといわれている。そして、「北」の人口は世界人口の20%たらずである。つまり、20%の人間が世界全体の80%の富を握り生産物を消費している、ということである。その結果、約13億人が貧困状態にあり、そのうち約8億人が毎日の食事にもこと欠く「絶対的貧困」に苦しんでいる、という現実をもたらしているのである。
こうした貧困を解消するためには、途上国のそれぞれが先進国なみの経済発展を遂げればいい、ということになりそうである。しかし、もしも、全世界の人々が、いまの先進工業国住人なみの物質的生活水準に達したなら、地球上の資源や食糧は、たちまちにして底をっくことになるし、地球環境は、ただちに、人類の生存を不可能にするまで悪化するであろう。それぞれの国がそれぞれ勝手に「豊かさ」を追い求めていくというのでは、破滅が待っているだけなのである。「国」の枠組みを超えて、いかに現在の「不公平」を解消していくか、その視点なくしては人類に未来はない、といっても決して大げさではないと思う。そして、現在正当な取り分以上の配分を享受している先進国こそが、率先して、「国」の枠組みを離れ、この「不公平」の解消に取り組む責任を有しているというべきであろう。
20世紀、「国」は、ある意味で「解放」のシンボルともみられてきた。しかし、「国」の枠組み(「口」)にとらわれているかぎり、人は、その文字が示すとおり、じっは「囚」(とらわれ人)でしかないのである。「国」の枠組み(「口」)を取り払ってはじめて、人は人として解放されるのである。
Human Rights
21世紀は「人権の世紀」である、ともいわれる。 20世紀の後半、国際社会は、「人権」の重要性をあらためて確認し、その国際水準の確立と実効的な保障に努めてきた。そして、21世紀は、この「人権」価値が世界全体に普遍的なものとして受け入れられる時代になるであろうことが、期待されている。
では、日本の場合、「人権」価値は十分に浸透・定着しているといえるか、となると、どうも怪しいところがある。「人権」という言葉は、英語でいえば“Human Rights”の訳語である。しかし、“Human Rights”と「人権」とは、少なくとも、語感的にはかなりの隔たりがあるように思う。その辺が、日本における「人権」理解のあやふやさに通じていそうな気がする。
そもそも、“right”を「権利」と訳したことから、この隔たりは始まっていると思う。英語の“right”という言葉には、「権利」のほかに「正しい」という意味がある。ほかに、というのはじつは正確でなく、rightはrightなのであって(名詞と形容詞の違いはあるが)、日本語に訳されたときに違った意味が与えられたのである。つまり、日本語で「権利」と訳されている“right”とは、「正しいこと」という意味なのである。 right (権利)はright(正しい)だからright (権利)なのである。とすると、日本語では「人権」と訳されている“Human Rights”とは、「人間として正しいこと」という意味になる。
しかし、日本語の「権利」という言葉には、「正しい」という意味は全然含まれていない。むしろそれは、自分の利益を押しとおす、といったニュアンスをもっている。さらに、同じ「権」という語が、「権力」というふうにも用いられるから、「人権」の「権」と、たとえば「行政権」の「権」との違いもあいまいになり、「権利」は、しばしば、「権力」と同様に、相手を問答無用に黙らせる道具として使われることにさえなる。そのために、人々は、「権利」とか「人権」というものに対して、なんとなく、うさん臭いものを感じているのではないか。だからこそ、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことがいわれたりするのであろう。しかし、そこでいわれる「権利」を“right”という語に置きかえてみれば、「right (正しぃこと)ばかりを主張する」のが悪かろうはずはないから、こういういい方のおかしさが明白になる。
したがって、「人権」価値を日本において浸透・定着させるためには、「人権」を「人権」という言葉で考えるのではなく、翻訳前の“Human Rights”という言葉で、つまり、「人間として正しいこと」というものとして、考える必要があろう。どういうことかというと、人権を主張する側は、それが「人権」だから(憲法で保障されているから)主張するというのでなく、それが「人間として正しいことだ」ということをきちんといえなければならない、ということであり、逆に、そんなものは人権ではないとして否定する側は、それが「人間として正しいこと」ではないということを、やはりきちんといえなければならない、ということである。こうして、何か「人間として正しいこと」なのかについて、きちんとした対話がなされ、それを通じて社会的コンセンサスが形成されてはじめて、日本社会に「人権」価値が定着することとなろう。
「国」の枠組みを離れて
20世紀が始まった頃、地球上にあった「国家」は60カ国ほどであった。100年後のぃま、それが3倍以上に増えている。その意味で、20世紀は「国家」の世紀でもあった。そして、その「国家」は、国境線で区切られた一定の領域をもち、主権をそなえ、その構成員(国民)が「ナショナル・アイデンティティ」を共有している「国民国家」として存在してきた。この「国民国家」が、第1次大戦後のハプスブルク帝国およびオスマン帝国の解体、そして第2次大戦後の「脱植民地化」によって、世界全体を覆うこととなったのであった。
「国民国家」は、「国家」というものを、人々のアイデンティティの一つの重要な表徴とした。とりわけ第2次大戦後の「脱植民地化」の動きは、自前の国家建設によるアイデンティティの回復(ないし確立)という意味において、「人民解放」としての積極的な意味をもちえた。こうして、「国家」の重要性は、疑う余地のないもののようにみえた。「国家」という枠組みは、私たちの思考の枠組みにもなったのである。
しかし、いま、21世紀を前にして、「国家」は、あるいは「国」という枠組みのなかでの思考は、地球人類の未来を奪いかねないものになろうとしている。たとえば、日本では、いわゆる少子化か重大な問題となっており、このままでは日本の人口は先細りになり国が衰退するから、なんとか子どもを増やすような政策を考えるべきだ、といった議論がある。たしかに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えれば、そういう議論になろう。しかし、日本では少子化による人口減という問題が起きているが、世界全体では、毎年8000万人という爆発的な人口増加が重大問題となっているのである。このままいけば、21世紀の前半には、世界の人口は100億人に近づくといわれている。地球の「人類扶養能力」の限界を超えかねない事態が、間近に迫っているのである。そういうときに、この地球規模の問題にいかに対処するかという観点ぬきに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えて、人口増加をはかろうというのは、文字どおり愚の骨頂である。
あるいは、地球環境問題も、資源・エネルギー問題も、食糧問題も、すべて、しかりである。自国の利益、あるいは自国の経済・産業の発展というような、「国」の枠組みにとらわれた考え方では、いま私たちが直面しているこれらの地球規模の問題は、解決できないばかりか、ますます深刻化し、そんなに遠くない時期に、私たちじしんの生存を脅かすこととなろう。「国」の枠組みを離れて考えることが、いま、緊急に求められているのである。
これらの地球規模の問題の大きな要因となっており、あるいはそれらの問題の解決を遅らせる要因となっているのは、いわゆる「北」側先進工業国の過剰ともいえる物質的「豊かさ」と、他方、いわゆる「南」の発展途上国の深刻な貧困という、世界規模の不公平な配分である。現在、日本を含む「北」側先進国のGNP総額は、世界全体のそれのおよそ80%程度を占めるといわれている。そして、「北」の人口は世界人口の20%たらずである。つまり、20%の人間が世界全体の80%の富を握り生産物を消費している、ということである。その結果、約13億人が貧困状態にあり、そのうち約8億人が毎日の食事にもこと欠く「絶対的貧困」に苦しんでいる、という現実をもたらしているのである。
こうした貧困を解消するためには、途上国のそれぞれが先進国なみの経済発展を遂げればいい、ということになりそうである。しかし、もしも、全世界の人々が、いまの先進工業国住人なみの物質的生活水準に達したなら、地球上の資源や食糧は、たちまちにして底をっくことになるし、地球環境は、ただちに、人類の生存を不可能にするまで悪化するであろう。それぞれの国がそれぞれ勝手に「豊かさ」を追い求めていくというのでは、破滅が待っているだけなのである。「国」の枠組みを超えて、いかに現在の「不公平」を解消していくか、その視点なくしては人類に未来はない、といっても決して大げさではないと思う。そして、現在正当な取り分以上の配分を享受している先進国こそが、率先して、「国」の枠組みを離れ、この「不公平」の解消に取り組む責任を有しているというべきであろう。
20世紀、「国」は、ある意味で「解放」のシンボルともみられてきた。しかし、「国」の枠組み(「口」)にとらわれているかぎり、人は、その文字が示すとおり、じっは「囚」(とらわれ人)でしかないのである。「国」の枠組み(「口」)を取り払ってはじめて、人は人として解放されるのである。
Human Rights
21世紀は「人権の世紀」である、ともいわれる。 20世紀の後半、国際社会は、「人権」の重要性をあらためて確認し、その国際水準の確立と実効的な保障に努めてきた。そして、21世紀は、この「人権」価値が世界全体に普遍的なものとして受け入れられる時代になるであろうことが、期待されている。
では、日本の場合、「人権」価値は十分に浸透・定着しているといえるか、となると、どうも怪しいところがある。「人権」という言葉は、英語でいえば“Human Rights”の訳語である。しかし、“Human Rights”と「人権」とは、少なくとも、語感的にはかなりの隔たりがあるように思う。その辺が、日本における「人権」理解のあやふやさに通じていそうな気がする。
そもそも、“right”を「権利」と訳したことから、この隔たりは始まっていると思う。英語の“right”という言葉には、「権利」のほかに「正しい」という意味がある。ほかに、というのはじつは正確でなく、rightはrightなのであって(名詞と形容詞の違いはあるが)、日本語に訳されたときに違った意味が与えられたのである。つまり、日本語で「権利」と訳されている“right”とは、「正しいこと」という意味なのである。 right (権利)はright(正しい)だからright (権利)なのである。とすると、日本語では「人権」と訳されている“Human Rights”とは、「人間として正しいこと」という意味になる。
しかし、日本語の「権利」という言葉には、「正しい」という意味は全然含まれていない。むしろそれは、自分の利益を押しとおす、といったニュアンスをもっている。さらに、同じ「権」という語が、「権力」というふうにも用いられるから、「人権」の「権」と、たとえば「行政権」の「権」との違いもあいまいになり、「権利」は、しばしば、「権力」と同様に、相手を問答無用に黙らせる道具として使われることにさえなる。そのために、人々は、「権利」とか「人権」というものに対して、なんとなく、うさん臭いものを感じているのではないか。だからこそ、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことがいわれたりするのであろう。しかし、そこでいわれる「権利」を“right”という語に置きかえてみれば、「right (正しぃこと)ばかりを主張する」のが悪かろうはずはないから、こういういい方のおかしさが明白になる。
したがって、「人権」価値を日本において浸透・定着させるためには、「人権」を「人権」という言葉で考えるのではなく、翻訳前の“Human Rights”という言葉で、つまり、「人間として正しいこと」というものとして、考える必要があろう。どういうことかというと、人権を主張する側は、それが「人権」だから(憲法で保障されているから)主張するというのでなく、それが「人間として正しいことだ」ということをきちんといえなければならない、ということであり、逆に、そんなものは人権ではないとして否定する側は、それが「人間として正しいこと」ではないということを、やはりきちんといえなければならない、ということである。こうして、何か「人間として正しいこと」なのかについて、きちんとした対話がなされ、それを通じて社会的コンセンサスが形成されてはじめて、日本社会に「人権」価値が定着することとなろう。
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