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「平等」という概念

『憲法学教室』より 平等原則 「差別」と「合理的区別」

(1)近代憲法原理としての平等の観念は、人間平等の思想を前提に、国家はすべての人を平等に取り扱わなければならないとする規範的要請を内容とするものである。

平等という観念は、自由とならび、近代市民革命の旗印とされたものである。それは、生まれによって人を差別する封建的身分制を否定するものであり、人はみなその価値において等しい存在であるという人間平等の思想に立脚するものであった。

それぞれの人がもっているそれぞれの価値を等しく尊重しようという人間平等の思想を前提に、したがって、国家は、人を区別して、ある人を特別有利に扱ったり、あるいは逆に不利に扱ったりしてはならない、とするのが、憲法原理としての平等の意味内容である。要するに、国家による不平等な取扱いを排除するというのが、憲法上の平等原則の意味であるといえる。それは、別の言葉でいえば、法的な取扱いにおける平等ということになる。「法の下に」平等である、という憲法14条のいい方は、このことを表わしているわけである。

(2)憲法上の平等原則は、そもそもは「形式的平等」を意味したが、こんにちでは「実質的平等」の観念をも反映するものとしてとらえられる。

人間はみな平等である、というのは、上述のように、人はみなそれぞれに違うということを前提としている。そのことを前提に、憲法原理としての平等は、国家による不平等取扱いの禁止=法的取扱いの均一化を求めるものである。人それぞれいろいろな違いがあるにもかかわらず、国家はすべての人を同じに取り扱え、というのは、考えようによっては、非常に形式的な平等を意味することになる。いろいろな違いがあっても法的には同じに扱うということは、その違いに基づく実際上の不平等状態を無視し、固定化ないし拡大することにもなりうるからである。それにもかかわらず、近代憲法原理としての平等は、法的取扱いの均一化という形式的平等を意味し、実際上の不平等状態の是正ということ(実質的平等)は、そもそもは、その射程に入れられていなかった。それは、近代においては、国家の任務は各個人の自由な活動を保障することであって、そうした自由な活動によって達成される結果に違いが出てくるのは、各人の能力や勤勉さによるものとして国家の関与すべきことではない、と考えられたからである。要するに、「自己責任」の考え方である。こういう「自己責任」の考え方が支配的であった近代においては、国家の法は、活動の機会を各人に平等に保障するもの(あるいは、不平等こ制限しないもの)であればよく(=機会の平等)、それ以上に進んで、結果の平等までは求められなかったのである。

ところが、その後の社会の発展は、「結果の不平等」をますます拡大し、それをもっぱら各個人の「自己責任」として放置することの不合理性を認識させることとなった。そこで、単なる形式的な平等ではなく、実際に存在する社会的・経済的等の不平等を是正して実質的な平等を実現すべきことが、国家に対して求められるようになってきたのである。ここに、憲法における平等の観念は、国家による不平等取扱いの禁止という消極的なものにとどまらず、国家による平等の実現という積極的な内容をもつものになったということができる。

形式的平等から実質的平等へ、というのは、しかし、形式的平等だけではダメだ、ということであって、形式的平等ということはもはや考える必要がないということではない。国家が、ある人を特別有利に扱ったり、逆に不利に扱ったりしてはならない、というのは、こんにちにおいても、なお基本的な前提として維持されなければならないことであるからである。そういう観点からいえば、こんにちでも、「法の下の平等」の基本的な意味は、依然として、法的取扱いの平等というところにあると考えるべきことになる。ただ、実質的平等の実現のために形式的に不平等な取扱いをすることとなっても、それは、平等原則に違反するものではない、という形で、「法の下の平等」眉目llは宝質的平等の知合を反映するものとなっているわけである。

(3)憲法の要請する平等は、なにがなんでも同じに扱えという「絶対的平等」ではなく、事実状態の違いに応じて等しく扱えという「相対的平等」である。

平等原則は、法的な取扱いの均一を要求するものであるが、人にはそれぞれ、さまざまな点において違いがあるから、そういう各個人のそなえている事実状態の違いというものをいっさい捨象して法律上均一に取り扱うことは場合によっては、かえって不合理な結果を生ずることにもなりかねない。実質的平等ということへの配慮が要請されるこんにちにおいては、このことはなおさらである。国家が人を区別して法的な取扱いに差を設けることは、基本的こは許されないことであるとしても、そのことによって不合理な結果が発生するというような場合には、各個人の帯有する事実状態の違いというものを考慮に入れて、異なった取扱いをすることが、むしろ要請されるであろう。そういう意味で、法的な均一取扱いという原則を絶対的なものとすることはではできない。異なった取扱いをすることに正当な理由があれば、それを是認しなければならないのである。こういうふうに考えれば、「平等」といっても、憲法が要請しているのは、なにがなんでも同じに扱えということ(絶対的平等)ではなく、各個人の違いを考慮に入れてそれに応じて等しく扱えということ(相対的平等)である、ということになる。

憲法の要請する平等を、このように相対的平等としてとらえるのが通説的であり、したがって、「合理的な差別」は許されると説かれるのが通例である。しかし、このように解した場合には、憲法上許される異なった取扱いと許されないそれとを、どのような標準によって区別するか、具体的な場合に、なにをもって「合理的な差別」とし、なにをもって「不合理な差別」とみるか、といった非常に困難な問題に直面することとなる。この点については、のちに触れることとする。

なお、言葉に対する好みの問題にすぎないのかもしれないが、「合理的差別」という言葉は、私にはどうも心地の悪い響きがするので、以下では、「合理的差別」という語に代えて「合理的区別」ということにしたい。
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