未唯への手紙
未唯への手紙
読書の方法と無方法-なぜ読めないのか
『努力する人間になってはいけない』より
読書の方法と無方法-なぜ読めないのか
〝難しい〟文章や本を読むのが苦手な人というのは、何か苦手なのだろうか。
その理由ははっきりしている。〝難しい〟本を読めないのは、順追って最初から読んでいこうとするからだ。どの一行にも意味があると思って(もちろん意味はあるのだが)、そしてまた後の行、あるいは後の段落は、最初の行や最初の段落を理解しなければ理解できないと思って、最初からきまじめに読もうとする。そして「こりゃあ、ダメだ」と言って投げ出す。これではどんなに自己研鐙を進めても〝難しい〟本は読めない。
〝わかる〟箇所からこじ開ける
すべての文言が理解できる本などというものは、ほとんどあり得ない。〝本が読める人〟というのは、むしろ読み飛ばすことができる人のことを言う。どんな難しい本も、必ず二行や三行くらいは〝わかる〟文章に出会うことがある。そういった二行や三行が五頁おき一〇頁おきに一箇所、二箇所必ず存在している。そういった。わかる箇所を一つ、二つと見出し始めていくと、従来わからなかった箇所の一部までもがなんとなくわかってくる感じがする。点が線で結びついていく。そうやって、こじ開けるようにして難しい本を読み開いていく。それが読書だ。
本を読める人というのは、すべてがわかる〝賢い人〟なのではなくて、わからないことを恐れない人のことを言う。わからないところで断念するのではなくて、飛ばして先に進む勇気があるかないか、それが読書の境目。本を読めない人は、わからないところが出てくるとすぐにそれで諦める。誰が読んでもわからないものはわからない、そう思えないのが本を読めない人の特徴。
本の〝全体〟とか〝部分〟というのは、機械の部品(の集積)のような全体でも部分でもない。一行の文章がその行を含む一冊の書物の全体を表現している文章であることもあるし、どの行もどの言葉も均質の意味を有し続けている全体であることもある。それはどちらにしても最初とか最後という時間性を拒否しているのである。
始まりも終わりもない書物
言葉を読み込む、文章を読み込むということに最初もなければ最後もない。点を線に繋いだり、線を点に戻したりしながら、一つの同じ言葉が、一つの同じ文章が何回もその意味を変えていく様(さま)を体験すること、それが読書だ。
だから、文章の〝全体〟に始まりも終わりもない。どこから読んでも読み終われるのが文章というもの。古典的とも言われるぷ習nの書物ならなおさらのこと。ダメな文章ほど、因果(あとさき)に縛られ、ストーリーに縛られている。直木賞の文学が芥川賞の文学に差をつけられているとすれば、三流の文学は因果的だということに他ならない。
推理小説が文学としてくだらないのは、二回目を読む興奮は最初に読む興奮よりも半分以下になっているだろうからである。推理小説を後ろから読むことは危険この上ないことだし、飛ばし読みも難しい。推理小説がもし本気で〈文学〉でありたいとすれば、二回目に読むと〝犯人〟が別の人になるくらいの〝工夫〟がなければならない。三回目にはまた別の〝犯人〟が登場するというように。
大概の古典は何回も〝犯人〟が変わる推理小説のようだ。私の二〇代後半はヘーゲルの『大論理学』、ハイデガーの『存在と時間』を読むことに明け暮れていた。なんど読んでも〝犯人〟が見つからない。最高の文学=哲学だ。
何回も読み直せるかどうかがその文学を本質的なものにする。それが始まりも終わりもない書物や文学の本質を言い当てている。だから本来の文章にはアプローチの作法というものはない。三流の文学や思考、そしてまた官庁の白書、そしてまた区役所の広報情報、そしてまたリクルートの情報誌こそが丁寧に(あとさきを間違えずに)読まなければ〝意味がわからない〟文章にあふれており、不自由な〝読書〟を強いる。
それに比べて、自由な文学(文章)は自由な読書を可能にする。行儀良く読む必要などまったくないのである。
読書の方法と無方法-なぜ読めないのか
〝難しい〟文章や本を読むのが苦手な人というのは、何か苦手なのだろうか。
その理由ははっきりしている。〝難しい〟本を読めないのは、順追って最初から読んでいこうとするからだ。どの一行にも意味があると思って(もちろん意味はあるのだが)、そしてまた後の行、あるいは後の段落は、最初の行や最初の段落を理解しなければ理解できないと思って、最初からきまじめに読もうとする。そして「こりゃあ、ダメだ」と言って投げ出す。これではどんなに自己研鐙を進めても〝難しい〟本は読めない。
〝わかる〟箇所からこじ開ける
すべての文言が理解できる本などというものは、ほとんどあり得ない。〝本が読める人〟というのは、むしろ読み飛ばすことができる人のことを言う。どんな難しい本も、必ず二行や三行くらいは〝わかる〟文章に出会うことがある。そういった二行や三行が五頁おき一〇頁おきに一箇所、二箇所必ず存在している。そういった。わかる箇所を一つ、二つと見出し始めていくと、従来わからなかった箇所の一部までもがなんとなくわかってくる感じがする。点が線で結びついていく。そうやって、こじ開けるようにして難しい本を読み開いていく。それが読書だ。
本を読める人というのは、すべてがわかる〝賢い人〟なのではなくて、わからないことを恐れない人のことを言う。わからないところで断念するのではなくて、飛ばして先に進む勇気があるかないか、それが読書の境目。本を読めない人は、わからないところが出てくるとすぐにそれで諦める。誰が読んでもわからないものはわからない、そう思えないのが本を読めない人の特徴。
本の〝全体〟とか〝部分〟というのは、機械の部品(の集積)のような全体でも部分でもない。一行の文章がその行を含む一冊の書物の全体を表現している文章であることもあるし、どの行もどの言葉も均質の意味を有し続けている全体であることもある。それはどちらにしても最初とか最後という時間性を拒否しているのである。
始まりも終わりもない書物
言葉を読み込む、文章を読み込むということに最初もなければ最後もない。点を線に繋いだり、線を点に戻したりしながら、一つの同じ言葉が、一つの同じ文章が何回もその意味を変えていく様(さま)を体験すること、それが読書だ。
だから、文章の〝全体〟に始まりも終わりもない。どこから読んでも読み終われるのが文章というもの。古典的とも言われるぷ習nの書物ならなおさらのこと。ダメな文章ほど、因果(あとさき)に縛られ、ストーリーに縛られている。直木賞の文学が芥川賞の文学に差をつけられているとすれば、三流の文学は因果的だということに他ならない。
推理小説が文学としてくだらないのは、二回目を読む興奮は最初に読む興奮よりも半分以下になっているだろうからである。推理小説を後ろから読むことは危険この上ないことだし、飛ばし読みも難しい。推理小説がもし本気で〈文学〉でありたいとすれば、二回目に読むと〝犯人〟が別の人になるくらいの〝工夫〟がなければならない。三回目にはまた別の〝犯人〟が登場するというように。
大概の古典は何回も〝犯人〟が変わる推理小説のようだ。私の二〇代後半はヘーゲルの『大論理学』、ハイデガーの『存在と時間』を読むことに明け暮れていた。なんど読んでも〝犯人〟が見つからない。最高の文学=哲学だ。
何回も読み直せるかどうかがその文学を本質的なものにする。それが始まりも終わりもない書物や文学の本質を言い当てている。だから本来の文章にはアプローチの作法というものはない。三流の文学や思考、そしてまた官庁の白書、そしてまた区役所の広報情報、そしてまたリクルートの情報誌こそが丁寧に(あとさきを間違えずに)読まなければ〝意味がわからない〟文章にあふれており、不自由な〝読書〟を強いる。
それに比べて、自由な文学(文章)は自由な読書を可能にする。行儀良く読む必要などまったくないのである。
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