未唯への手紙
未唯への手紙
フェイスブックがイタリアで爆発的に普及した理由
『イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる』より
「楽しそうな写真を公開したら反感を買う」という日本人
2008年、イタリアでフエイスブックが、対前年比961%という驚異的な伸び率で爆発的に普及した。大ブームが滅多に起こらないこの国では、非常に珍しい現象である。
私もその年、SNSがどういうものかまったく知らないまま、イタリアの友だちの勢いに押されてアカウントを作った。もともとアナログな性格で、メールでさえ最小限に抑えている方なので、「SNSで世界の友だちと交流しよう」などという気はさらさらなかった。にもかかわらず、なぜ私はアカウントを作る気になったのか? それは、イタリア人の友だちが日々更新し、公開している写真や情報に興味をそそられたからだ。
「チャオ、アサミ。今、これを作ってるのよ!」
料理中の友だちが写真付きでメッセージを投稿したり、
「おう、今ここにいるぜ」
旅行中の友だちが旅先の楽しそうな映像を掲示板に貼りつけたりと、電話だけではわからない臨場感が伝わってくる。これは楽しい。そのうち私も見るだけでなく、自分で写真を撮って友だちに、「こんな美味しいもの食べてるよ!」と公開するようになった。イタリア人の仲間は、食と旅に関するネタだと瞬時に反応があるので、その書き込みを見るのもとても面白い。
SNSが最大に威力を発揮するのは、お互いが遠く離れた場所にいる時。日本ヘ一時帰国すると、イタリアの友だちは、「今日は何食べた?」とか、「家族の顔が見たい!」とか、リアルタイムで私の状況を知りたがる。反対にイタリアにいる時は、日本の友だちの「今日」がダイレクトにわかるので、物理的な距離感がとても短くなったことを感じている。
日本でSNSはイタリア以上に日常生活に浸透していると思う。ネット環境やスマホの普及率から考えても、それは当然のことかもしれない。実際ここ数年、日本の友だちがイタリアヘ来るたびに、スマホ操作に追われている様子を間近で見てきた。
ある日、そんな友だちの一人が、写真を撮って投稿しようとしてふと、「これは載せられないな」とつぶやいて操作を取りやめた。「どうして? すごく楽しそうな写真なのに」と私が残念がると、「そう、楽しそうだからダメなの。日本の同僚は仕事中だから」と言った。要するに、みんなが働いている時に旅先の楽しそうな写真を見せるのは反感を買う、ということらしかった。
「ええっ、どうして? 別に悪いことしているわけじゃないのに。ちゃんと仕事して、自分のお金で自分のためのヴァカンスをして何がいけないの? 楽しんでいる人を見るのって、嬉しいことなんじゃないの?」。私には理解できない感覚だった。
SNSをやっている日本の友だちに話を聞いてみると、多くの人が「主に仕事用に使っている」と言っている。私の交流仲間には、会社経営をしている友人もいれば、フリーランスで働いている友だちも大勢いる。彼らにとってSNSはれっきとしたビジネスツールで、そこに書き込む記事やアップする写真は、大事な営業広告になるらしい。
それを知ってから改めて、公開されているさまざまな日本語の掲示板とイタリア語の掲示板を見比べてみた。そして、投稿記事の内容に大きな違いがあることに気づいた。
共感を呼ぶのは、本音から出た「心の叫び」
日本語の掲示板の記事には、どれも差し障りのない言葉が並んでいる。そのほとんどは、「こう書けば、こう受け取るだろう」、あるいは「こういう反応が返ってくるだろう」と、読み手の反応を予測したうえで書かれているような印象を受ける。一見すると「コミュニケーション」しているようだが、相手の反応を予測したうえでの書き込みは、裏を返せば「一方通行の告知」。
反対にイタリア語の掲示板を見ると、みんな好き勝手なことを書いている。日頃から相手の反応など気にしないイタリア人らしく、本音から出た〝心の叫び々〟が、掲示板のそこここに躍っているのだ。
「おおー、月曜だぜ! 働きたくねぇよ!」
「そっちの猫ってどうしてこんなに可愛いの?」
「俺は今晩、何を食えばいいんだ?」
「私のパパって最高!」
「僕の今日の髪型、キマッてる」
「愛してるわ、アモーレ!」
「誰か俺のマンマの長話を止めてくれ……」
どの投稿も、読みながら「そんなの知ったことか!」とツッコミたくなる内容だが、ついつい笑ってしまうリアル感にあふれている。賭けてもいいが、書いている本人は読んだ人の反応など一切考えていないはずだ。自分のその時の気分を率直に、誰かに言いたいから書いただけ。それをどう受け止めるかは読んだ人の自由であり、書き手がコントロールできるものでもないことを、彼らはよくわかっている。
「その時々の自分の感情、状況、経験を、ともかくすぐに伝えて分かち合いたい」。そうした感情の衝動を表現する手段としてSNSを利用しているイタリア人にとっては、自分のコメントがどう受け止められるかなどという懸念は皆無に近いだろう。〝共感を呼ぶ〟ための第一歩は、自分の心情を素直に吐露すること。そのことを、彼らは無意識のうちに知っているような気がする。
「楽しそうな写真を公開したら反感を買う」という日本人
2008年、イタリアでフエイスブックが、対前年比961%という驚異的な伸び率で爆発的に普及した。大ブームが滅多に起こらないこの国では、非常に珍しい現象である。
私もその年、SNSがどういうものかまったく知らないまま、イタリアの友だちの勢いに押されてアカウントを作った。もともとアナログな性格で、メールでさえ最小限に抑えている方なので、「SNSで世界の友だちと交流しよう」などという気はさらさらなかった。にもかかわらず、なぜ私はアカウントを作る気になったのか? それは、イタリア人の友だちが日々更新し、公開している写真や情報に興味をそそられたからだ。
「チャオ、アサミ。今、これを作ってるのよ!」
料理中の友だちが写真付きでメッセージを投稿したり、
「おう、今ここにいるぜ」
旅行中の友だちが旅先の楽しそうな映像を掲示板に貼りつけたりと、電話だけではわからない臨場感が伝わってくる。これは楽しい。そのうち私も見るだけでなく、自分で写真を撮って友だちに、「こんな美味しいもの食べてるよ!」と公開するようになった。イタリア人の仲間は、食と旅に関するネタだと瞬時に反応があるので、その書き込みを見るのもとても面白い。
SNSが最大に威力を発揮するのは、お互いが遠く離れた場所にいる時。日本ヘ一時帰国すると、イタリアの友だちは、「今日は何食べた?」とか、「家族の顔が見たい!」とか、リアルタイムで私の状況を知りたがる。反対にイタリアにいる時は、日本の友だちの「今日」がダイレクトにわかるので、物理的な距離感がとても短くなったことを感じている。
日本でSNSはイタリア以上に日常生活に浸透していると思う。ネット環境やスマホの普及率から考えても、それは当然のことかもしれない。実際ここ数年、日本の友だちがイタリアヘ来るたびに、スマホ操作に追われている様子を間近で見てきた。
ある日、そんな友だちの一人が、写真を撮って投稿しようとしてふと、「これは載せられないな」とつぶやいて操作を取りやめた。「どうして? すごく楽しそうな写真なのに」と私が残念がると、「そう、楽しそうだからダメなの。日本の同僚は仕事中だから」と言った。要するに、みんなが働いている時に旅先の楽しそうな写真を見せるのは反感を買う、ということらしかった。
「ええっ、どうして? 別に悪いことしているわけじゃないのに。ちゃんと仕事して、自分のお金で自分のためのヴァカンスをして何がいけないの? 楽しんでいる人を見るのって、嬉しいことなんじゃないの?」。私には理解できない感覚だった。
SNSをやっている日本の友だちに話を聞いてみると、多くの人が「主に仕事用に使っている」と言っている。私の交流仲間には、会社経営をしている友人もいれば、フリーランスで働いている友だちも大勢いる。彼らにとってSNSはれっきとしたビジネスツールで、そこに書き込む記事やアップする写真は、大事な営業広告になるらしい。
それを知ってから改めて、公開されているさまざまな日本語の掲示板とイタリア語の掲示板を見比べてみた。そして、投稿記事の内容に大きな違いがあることに気づいた。
共感を呼ぶのは、本音から出た「心の叫び」
日本語の掲示板の記事には、どれも差し障りのない言葉が並んでいる。そのほとんどは、「こう書けば、こう受け取るだろう」、あるいは「こういう反応が返ってくるだろう」と、読み手の反応を予測したうえで書かれているような印象を受ける。一見すると「コミュニケーション」しているようだが、相手の反応を予測したうえでの書き込みは、裏を返せば「一方通行の告知」。
反対にイタリア語の掲示板を見ると、みんな好き勝手なことを書いている。日頃から相手の反応など気にしないイタリア人らしく、本音から出た〝心の叫び々〟が、掲示板のそこここに躍っているのだ。
「おおー、月曜だぜ! 働きたくねぇよ!」
「そっちの猫ってどうしてこんなに可愛いの?」
「俺は今晩、何を食えばいいんだ?」
「私のパパって最高!」
「僕の今日の髪型、キマッてる」
「愛してるわ、アモーレ!」
「誰か俺のマンマの長話を止めてくれ……」
どの投稿も、読みながら「そんなの知ったことか!」とツッコミたくなる内容だが、ついつい笑ってしまうリアル感にあふれている。賭けてもいいが、書いている本人は読んだ人の反応など一切考えていないはずだ。自分のその時の気分を率直に、誰かに言いたいから書いただけ。それをどう受け止めるかは読んだ人の自由であり、書き手がコントロールできるものでもないことを、彼らはよくわかっている。
「その時々の自分の感情、状況、経験を、ともかくすぐに伝えて分かち合いたい」。そうした感情の衝動を表現する手段としてSNSを利用しているイタリア人にとっては、自分のコメントがどう受け止められるかなどという懸念は皆無に近いだろう。〝共感を呼ぶ〟ための第一歩は、自分の心情を素直に吐露すること。そのことを、彼らは無意識のうちに知っているような気がする。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 誰も認めてく... | 天皇の意向に... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |