未唯への手紙
未唯への手紙
スーダンでのPKO
『グローバルプレイヤーとしての日本』より
スーダンはアフリカでもっとも広い国であり、日本の面積の六・七倍ある。一九二四年以来北部を中心に独立運動が続げられ、一九五四年に自治政府が発足し、一九五六年に共和国として独立した。しかし、独立前の一九五五年から、南北内戦が勃発し、北部のアラブ系イスラム教徒と南部の非アラブ系の黒人が対立した。内戦は、一九七二年まで続き、いったん終息したが、一九八三年、政府がイスラム法を導入したため、再び内戦が勃発した。二〇〇四年末に至って、国連安保理の努力によって、事態は改善に向かい、二〇〇五年、南北包括和平合意(CPA)が結ばれた。
この包括和平合意に基づいて、二〇〇五年四月、合意を守るためのPKO(国連スーダンミッション、UNMIS)が設立され、二〇〇五年七月には、アル・バシール大統領を大統領とし、南部のSPLA(スーダン人民解放軍)のガラン最高司令官を副大統領とするという統一暫定政府が発足した(その直後、ガランは事故死を遂げている)。そして、六年間統治したのち、独立の可否を問う住民投票か行われることになっている。
もう一つはダルフール紛争である。スーダン西部のダルフールでは、やはりアラブ系遊牧民とアフリカ系農民が対立しており、アフリカ系は反政府傾向が強かった。ハルトゥーム政府は、南との対立で兵を差し向ける余裕がなかった。そこから、ジャンジャウィードと呼ばれるアラブ系の民兵組織がアフリカ系農民を襲い、村落を破壊するという事件が多発するようになった。
スーダンの問題は、そもそも一つの国になれそうにない人々が、統一を続けていることである。しかもアラブ系のほうが政治的にも経済的にも力を持っている。南部に対する投資はきわめて少なく、舗装道路も数えるほどしかない。南は、将来独立すれば世界で一番貧しい国になるであろうと言われている。
安保理が対象とするのは国際の平和と安全であって、純国内問題に国際社会は関与しにくいのである。実際には、国境を越える軍事的な動きもあって、周辺国と無関係ではなかったので、アメリカの強いイニシアティブで南北和平までは到達することができた。しかし、ダルフール問題は難航した。大きな理由は、中国がスーダンの石油に権益を持っていて、スーダン政府の意を受けて、PKOに反対し続けたことである。結局、中国が譲歩してPKO設立の決議が成立したのは、二〇〇五年三月のことであった。
それでもスーダンは容易にPKOを受け入れなかった。安保理の米英仏との妥協として、スーダンにはアフリカ連合(AU)の兵士がダルフールに派遣されることとなった。しかしAUの部隊は十分強力ではない。そこで、国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団(UNAMID)という国連とAUのハイブリッド・ミッションがつくられ、派遣されることとなった。しかしそのなかの国連PKOのほうも主力はアフリカであって、西側の期待するようなものにはなっていない。
ところで、二〇〇九年三月四日には、ハーグの国際刑事裁判所は、ダルフール問題に関連して、アル・バシール大統領に人道に対する犯罪などの容疑で逮捕状を発出した。もちろんスーダン側はこれに激しく反発している。Justiceというのは国連の大原則である。大きな罪を犯したものを放置しておいては、法の支配を実現することはできないということである。しかし、現地の大統領の逮捕を求めて、紛争の解決につながるだろうか。はなはだ疑問である。この点は、AUのジャン・ピン委員長も同意見であって、平和のために有害だと述べている。
日本はこれまでスーダンのPKOに要員を出していなかったが、最近、本部要員二名を出した。しかし、これではゼロに等しい。二〇一〇年七月にもあらためてスーダンに追加要員を出さないと決定している。世界中のPKOで、輸送能力とくにヘリコプターが不足していると言われており、日本にはその能力があるが、やろうとしていない。
ダルフール問題はときに激しい戦闘があって容易ではない。しかし南北対立についてなら日本は貢献することができる。スーダンにおける対日感情はよいし、植民地統治のようなマイナスの経緯はない。日本は誠実な仲介者の役割を果たせるのである。実際、JICAは南スーダンに人を出してかなりの活動をしている。しかるに自衛隊は人を出さない。二年後、独立に関する住民投票があるとき、事態はかなり緊迫するであろう。それに向けて、平和に役立ちうるのに何もしないのは、惜しいことである。
スーダンはアフリカでもっとも広い国であり、日本の面積の六・七倍ある。一九二四年以来北部を中心に独立運動が続げられ、一九五四年に自治政府が発足し、一九五六年に共和国として独立した。しかし、独立前の一九五五年から、南北内戦が勃発し、北部のアラブ系イスラム教徒と南部の非アラブ系の黒人が対立した。内戦は、一九七二年まで続き、いったん終息したが、一九八三年、政府がイスラム法を導入したため、再び内戦が勃発した。二〇〇四年末に至って、国連安保理の努力によって、事態は改善に向かい、二〇〇五年、南北包括和平合意(CPA)が結ばれた。
この包括和平合意に基づいて、二〇〇五年四月、合意を守るためのPKO(国連スーダンミッション、UNMIS)が設立され、二〇〇五年七月には、アル・バシール大統領を大統領とし、南部のSPLA(スーダン人民解放軍)のガラン最高司令官を副大統領とするという統一暫定政府が発足した(その直後、ガランは事故死を遂げている)。そして、六年間統治したのち、独立の可否を問う住民投票か行われることになっている。
もう一つはダルフール紛争である。スーダン西部のダルフールでは、やはりアラブ系遊牧民とアフリカ系農民が対立しており、アフリカ系は反政府傾向が強かった。ハルトゥーム政府は、南との対立で兵を差し向ける余裕がなかった。そこから、ジャンジャウィードと呼ばれるアラブ系の民兵組織がアフリカ系農民を襲い、村落を破壊するという事件が多発するようになった。
スーダンの問題は、そもそも一つの国になれそうにない人々が、統一を続けていることである。しかもアラブ系のほうが政治的にも経済的にも力を持っている。南部に対する投資はきわめて少なく、舗装道路も数えるほどしかない。南は、将来独立すれば世界で一番貧しい国になるであろうと言われている。
安保理が対象とするのは国際の平和と安全であって、純国内問題に国際社会は関与しにくいのである。実際には、国境を越える軍事的な動きもあって、周辺国と無関係ではなかったので、アメリカの強いイニシアティブで南北和平までは到達することができた。しかし、ダルフール問題は難航した。大きな理由は、中国がスーダンの石油に権益を持っていて、スーダン政府の意を受けて、PKOに反対し続けたことである。結局、中国が譲歩してPKO設立の決議が成立したのは、二〇〇五年三月のことであった。
それでもスーダンは容易にPKOを受け入れなかった。安保理の米英仏との妥協として、スーダンにはアフリカ連合(AU)の兵士がダルフールに派遣されることとなった。しかしAUの部隊は十分強力ではない。そこで、国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団(UNAMID)という国連とAUのハイブリッド・ミッションがつくられ、派遣されることとなった。しかしそのなかの国連PKOのほうも主力はアフリカであって、西側の期待するようなものにはなっていない。
ところで、二〇〇九年三月四日には、ハーグの国際刑事裁判所は、ダルフール問題に関連して、アル・バシール大統領に人道に対する犯罪などの容疑で逮捕状を発出した。もちろんスーダン側はこれに激しく反発している。Justiceというのは国連の大原則である。大きな罪を犯したものを放置しておいては、法の支配を実現することはできないということである。しかし、現地の大統領の逮捕を求めて、紛争の解決につながるだろうか。はなはだ疑問である。この点は、AUのジャン・ピン委員長も同意見であって、平和のために有害だと述べている。
日本はこれまでスーダンのPKOに要員を出していなかったが、最近、本部要員二名を出した。しかし、これではゼロに等しい。二〇一〇年七月にもあらためてスーダンに追加要員を出さないと決定している。世界中のPKOで、輸送能力とくにヘリコプターが不足していると言われており、日本にはその能力があるが、やろうとしていない。
ダルフール問題はときに激しい戦闘があって容易ではない。しかし南北対立についてなら日本は貢献することができる。スーダンにおける対日感情はよいし、植民地統治のようなマイナスの経緯はない。日本は誠実な仲介者の役割を果たせるのである。実際、JICAは南スーダンに人を出してかなりの活動をしている。しかるに自衛隊は人を出さない。二年後、独立に関する住民投票があるとき、事態はかなり緊迫するであろう。それに向けて、平和に役立ちうるのに何もしないのは、惜しいことである。
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