スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京中日スポーツ賞クラウンカップ&共通の本性

2021-04-22 19:10:20 | 地方競馬
 昨晩の第24回クラウンカップ。レスポンデールが腹痛のため出走取消となり13頭。ヴァヴィロフの本田正重騎手は9レースで落馬し臀部を打撲したため篠谷騎手に,ヒートアップハートの真島大輔騎手は疾病のため矢野騎手に変更。
                                        
 ヴァヴィロフは発馬後に左によれて1馬身の不利。すぐに先頭に立ったのはジョーロノ。ノートウォージーが2番手でマーク。2馬身差でピースフラッグとハートプレイス。5番手にリコーシンザンとディーノランページ。2馬身差でヒートアップハートとジョエルとギガキング。3馬身差でトーセンマッシモ。11番手にニヨドスマイル。最後尾にヴァヴィロフとボウトロイという隊列。前半の800mは50秒6のミドルペース。
 直線の入口にかけてジョーロノのリードが2馬身くらいに。向正面で早めに動いて進出を開始したギガキングが2番手に上がってジョーロノを追いました。ギガキングの後からそれを追うように上がってきたのがジョエルで,直線では前をいく2頭の外から差し切って優勝。ジョーロノとギガキングはフィニッシュまで競り合い,写真判定の結果はギガキングが1馬身半差の2着、ジョーロノがハナ差で3着。
 優勝したジョエルは昨年5月にデビューして新馬戦を勝利。その後の5戦は入着を続け,このレースのトライアルである前走で2勝目をあげ,ここに出走。南関東重賞は初挑戦での勝利となりました。このレースは南関東重賞の勝ち馬の出走はなく,入着歴があったのが2着馬と3着馬。その2頭が僅差の2着争いをしたということは,能力通りの結果となったとみるのが妥当でしょうから,ジョエルはそれくらいの力量をもった馬だと判断していいでしょう。この馬の前走のトライアルは2018年に創設されたものですが,2019年以降はそのトライアルの勝ち馬がいずれもクラウンカップを制することになりましたので,これはレースの傾向として記憶しておいた方がいいでしょう。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞兵庫ゴールドトロフィー,2010年に兵庫ゴールドトロフィーを勝ったトーセンブライト。母の父はダイワメジャー
 騎乗した船橋の張田昂騎手は京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞4勝目。クラウンカップは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は開業から5年9ヶ月で南関東重賞初勝利。

 個物res singularisの形相的本性essentia formalis,その個物が現実的に存在するとき,現実的に存在するその個物のすべてに共通するような形相的本性,いい換えるなら,個物の現実的本性actualis essentiaとは異なるものとしての形相的本性が,神Deusの属性attributumの中に含まれているのと同じように,個物の観念ideaが神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するのであれば,この観念というのは,その観念対象ideatumである個物が現実的に存在する場合に,現実的に存在するその個物のすべてに共通するような観念でなければなりません。そうでないなら,個物の観念が神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する場合について,個物の形相的本性が神の属性の中に含まれていることに対して,同じように存在するとはいわれ得ないことになるからです。
 このことから分かるのは,たとえば人間の観念が,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれるときの観念対象は,たとえばAとかBとかいわれるような人間のことではなく,AであってもBであっても通用するような人間の観念であるということです。Aという人間の現実的本性やBという人間の現実的本性とは異なった,すべての人間に一般的に妥当する人間の本性natura humanaというのが存在するということをスピノザが認めているということは第一部定理八備考二から明らかなのですから,確かにそうした本性が神の属性の中に含まれていて,その観念が神の無限な観念が存在する限りにおいて存在しているのだと解することは可能なのです。
 僕はこの場合は,神の属性の中に含まれている個物は,そのすべてが現実的に存在するようになるという方が,合理性が保てるのではないかと思います。これは単純にいうと,僕は個物の本性の中には,個物が現実的に存在するものであるということ,いい換えれば個物が持続するdurareものであるということが含まれていると考えるからです。よってそうしたことが個物の本性に含まれているのなら,その個物が現実的に存在することが不可能であるという場合には,その本性と矛盾したことになってしまうと考えるのです。そして,それと同じようにといわれている以上は,このことが個物の観念にも妥当しなければならないと考えます。
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