スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

武田家&ベクトル

2021-06-24 19:00:00 | 歌・小説
 抑圧と蔑視についての話題の後,「腕白時代の夏目君」は,僕が最も注目した話題に入ります。
                                        
 夏目家と篠本家は,共に幕臣でした。ただし勤め向きは異なっていたため,相識ではありませんでした。それでも両親は相互に名前は知っていたとあります。これは夏目の父が篠本の父の名前を知っていて,篠本の父が夏目の父の名前を知っていたということかもしれませんし,単に夏目家では篠本家という幕臣があり,篠本家では夏目家という幕臣がいるということを知っていたということを意味しているのかもしれません。
 篠本によれば,夏目家はもともとは甲斐の武田信玄の有力な旗本だったそうです。しかしその頃,武田信玄の家臣の中に,徳川家に内通した者,要するに徳川家に寝返ったものがいて,夏目家はその家臣に追随して徳川家の家臣となり,後に徳川家康が将軍になったときに,幕臣となったのだそうです。一方,篠本家も武田家の家臣だったのですが,こちらは寝返らず,武田勝頼の時代まで仕えたのですが,勝頼の死によって徳川家に降伏して家臣となり,江戸幕府が開かれたときに幕臣になったのだそうです。したがって篠本としては,もしも夏目家が追随した家臣の謀反がなければ,武田家がもっと続いたかもしれないという考えがあったそうです。
 篠本は漱石と喧嘩するときに,このことを最大の武器として使ったといいます。そしてこのことで漱石を嘲ると,漱石は狼狽して逃げ去ったそうです。もちろんこのような喧嘩をしたとしても,後にはふたりは仲直りしてまた仲よく遊んだのですが,篠本は漱石と喧嘩をするときには,このことが漱石を凹ませるのに有効であったといっています。篠本はこのように漱石を嘲ったことについては,子どもの頃のこととはいえ卑劣であったと感じていると反省しています。そして同時に,漱石が廉恥を重んじる思いが深かったことを感じるといっています。この頃の漱石はおそらく自身が士族の子孫であることを強く意識していたのでしょう。

 政治家は,たとえその時点でそれが最善であるという判断の下に実行した政策であったとしても,それが悪しき結果を齎したのであれば,それに対して責任を取らなければならないというのは,一定の合理性がある考え方であると思います。そして,旅行をすることや外食することを奨励する政策と,緊急事態宣言を発出して外出を控えるように要請する政策とでは,政策のベクトルというのが正反対だといえます。これらのことを合わせて考えれば,この政策の転換の間に内閣が変わっていれば,2度目の緊急事態宣言はより効果的であったろうと僕は推測します。これは推測ですが,おそらく正しいでしょう。
 旅行や外食を奨励する政策というのは,新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという観点だけに着目するなら,よくないことだというのはだれでも確知することができることです。とはいっても,実際にこの政策が実行された後に,新型コロナウイルスが日本全国に蔓延したことの間に,明確な因果関係があったということを実証することは困難です。ですから,本当に旅行と外食を推奨したことが悪しき結果を齎したのだと断定することはできません。ですから本筋としては,旅行と外食を推奨した内閣が辞職し,新しい内閣が緊急事態宣言を発令するべきであったかもしれませんが,そこまで求めるのは酷であったという見方にも,一理あるということを僕は認めます。
 しかしそれでも,正反対のベクトルの政策を後に実行するのであれば,それ以前の政策が誤りであったということが,多くの人に表象されるようにしなければ,新しい政策の効果は限定的なものになるのです。これは一般的にいえば,Aという政策を遂行した後に,Aとの関係を類推させる悪しき結果が表出したので,Aとは正反対のBという政策を実行したというときに,Aという政策の誤りについてその政策の実行者が認めていないと表象されると,その実行者は,Aを実行しておきながら悪しき結果が出たから,ただ何の反省もなくAを撤回してBを実行するようになったと認識されてしまうからです。したがってこの流れにワンクッションを置くために,Aについての反省が必要になるのです。
コメント
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