スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大阪・関西万博協賛競輪&第三部定理一九

2021-06-13 19:08:40 | 競輪
 福井競輪場で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは吉田‐柴崎‐鷲田の中部近畿と野田‐合志の九州で渡部と小林と磯田と池田は単騎。
 野田がスタートを取って前受け。3番手に磯田,4番手に吉田,7番手に渡部,8番手に小林,最後尾に池田で周回。残り3周のバックの出口から小林が上昇。磯田の後ろに入ろうとすると,吉田が譲り,4番手に小林,5番手に吉田という隊列に変化。そのままホームに入ると吉田が発進。いきなり全開で駆けていったこともあり,渡部は続けず,鷲田までの3人がバックで野田を叩いて打鐘。4番手に野田で,6番手以降は磯田,小林,渡部,池田の順で一列棒状に。バックに入って野田が発進。よい勢いでしたが柴崎が番手捲りで対抗。ややタイミングが遅かったため,吉田と合志が絡む形になり,野田が柴崎の後ろに入り,直線はこのふたりのマッチレース。野田もよく迫りましたが,優勝は先んじていた柴崎。野田が4分の3車輪差で2着。鷲田との競り合いを制した合志が3車身差の3着で鷲田は半車輪差で4着。
 優勝した三重の柴崎淳選手は2月に小倉のFⅠで完全優勝を果たして以来の優勝。GⅢは一昨年11月の四日市記念以来となる5勝目。このレースは単騎の選手が4人もいたのですが,結果的にその4人が後方になったため,脚力で優る柴崎と野田の勝負になりました。吉田があれほど早い段階から全力で先行していくのは意外だったのですが,3番手に地元の鷲田がマークしていたので,配慮があったのかもしれません。柴崎がもう少し早く野田に対応しておけば,柴崎と野田ではなく,柴崎と鷲田の争いになったかもしれません。ただそれは単騎の選手が後方になり,野田が4番手になったからだとみることができるでしょう。

 志村けんさんを表象するimaginariことによって喜びlaetitiaを感じるということは,そこまで難しく考える必要はありません。たとえば志村さんを表象するとともに,志村さんが開発したギャグを想起し,それによって思わず笑ってしまうというようなことでよいのです。実際にほとんどの人の精神mensのうちで,志村さんの表象像imagoはそうしたギャグの表象像と連結しているあるいは結合されているのであって,こうしたことはほとんどの日本人のうちに現実的に生じることだといってよいと僕は考えます。
 このとき,僕たちは志村さんの表象像を原因causaとして喜びという感情affectusに刺激されているのです。したがってほとんどの日本人は,単に志村けんさんを認知しているというばかりではなく,第三部諸感情の定義六により,志村さんのことを愛しているということになるのです。もちろんこれは程度の差があるのであって,愛しているにしても大きく愛している人,他面からいえば大きな喜びに刺激されるaffici人もいれば,そこまで大きな喜びには刺激されない,つまり愛しているにせよそんなに愛しているわけではないという人もいるでしょう。ただそういう程度の差こそあれ,志村さんがほとんどの日本人に愛されているということがここでは重要です。
                                   
 ここで第三部定理一九を援用します。
 「自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう」。
 志村さんが亡くなるということは,志村さんが破壊されることを直接的に意味します。したがって,志村さんを愛している人,要するにほとんどの日本人は,志村さんが亡くなることによって悲しみtristitiaを感じるのです。日本中が悲しみに包まれる,というようないい方がされることがありますが,それは取ってつけたような形容であるわけではなく,実際にそうしたことが生じ得るのです。もちろんこの悲しみも,愛amorの強さと比例します。つまりより愛している人が亡くなったという場合ほどその悲しみは強くなりますから,日本中が悲しみに包まれるといっても,各々の日本人が感じる悲しみの強さには差があるということになります。
コメント
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