第三部諸感情の定義一一で示されている嘲弄という喜びlaetitiaは,喜びとしてはあまり基礎が固いものとはいえません。これはこの感情affectusが,だれかを憎んでいなければ発生し得ない感情であるということに由来します。だれも憎んでいなければだれかを嘲弄し得ないということは,嘲弄の定義Definitioそのものから明白でしょう。
憎しみodiumがなければ存在し得ないような喜びについて,もっと一般的な形で示している定理Propositioがあります。それが第三部定理二〇です。
「自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう」。
憎んでいるものが破壊されることで感じられる喜びですから,もし何も憎んでいなければこの喜びが人のうちに発生し得ないことは明白です。
この定理の証明Demonstratioは容易です。
第三部定理一三により,僕たちは僕たちに悲しみtristitiaを齎すものを表象すれば,そのものの存在existentiaを排除する事物を表象しようとするコナトゥスconatusが働きます。しかるに憎しみは第三部諸感情の定義七によって悲しみの一種なのですから,僕たちが憎んでいるものは僕たちに悲しみを齎していると表象しているものです。ですからそれが破壊されることを表象するimaginariこと,他面からいえば僕たちが憎んでいるものの存在を排除するものを表象することは,僕たちに喜びを齎します。なぜならそれは単に憎しみという悲しみが除去されているということではなく,悲しみを齎しているものの存在が排除されているということであり,こうした表象imaginatioは第三部定理一三で示されているようなコナトゥスを促進していると考えられるからです。
したがって,この種の喜びは憎しみという悲しみなしには存在し得ない喜びです。つまり悲しみがあることによって発生し得る喜びです。このために喜びとしての基礎はあまり固くないのです。
契約はしたもののなかなかその後の連絡がありませんでしたので,僕と母はやきもきしていました。契約書を交わしたのが4日でしたから,9日が経過していたわけです。妹の必要な荷物はこれより後ならばいつ搬入してもよいということでしたので,日時はこちらから指定させてもらいました。
12月14日,木曜日。荷物の搬入の日時が決定していましたので,この日にその荷物を運搬してもらう業者を決定しました。
12月15日,金曜日。妹の通所施設での保護者会がありました。これは母が行きました。荷物を搬入してしまえば妹もグループホームで生活するようになり,その場合は日野にある施設に通うことになります。ですからこの施設の保護者会に参加するのはこれが最後でした。そういう理由もあって母は自分が出向き,お礼や挨拶をしておきたいと思ったようです。少なくともこの頃の母は,これくらいの体力はありました。
12月16日,土曜日。妹の土曜出勤でした。土曜日はガイドヘルパーによるサービスがありませんから,これは僕が送りました。この日はクリスマス礼拝とパーティーが開催されましたが,参加したのは妹だけです。新しく通うことになる施設にも,名称は異なりますがこの土曜出勤に該当するものがあります。ただ,この施設での土曜出勤は妹にとってこれがラストでした。僕たちは妹に対して,11月14日に見学に行ったグループホームで暮らすようになるということ,またその場合には同じ日に見学に行った日野の施設で作業を行うようになるということは説明していました。ただ,知的障害者ですから,それをどこまで把握しているのかということは不分明なところがありました。もうすぐこの施設に通っている人たちや職員とはお別れになるということは理解していた筈ですが,たとえばここでの土曜出勤はこれが最後であるというような細かいことまできちんと理解できていたのかどうかは,今となっても分かりません。
12月19日,火曜日。この日が僕たちが荷物の搬入に指定した日でした。まず依頼した業者に来てもらい,すべての荷物は先にグループホームの近辺まで持っていってもらいました。
憎しみodiumがなければ存在し得ないような喜びについて,もっと一般的な形で示している定理Propositioがあります。それが第三部定理二〇です。
「自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう」。
憎んでいるものが破壊されることで感じられる喜びですから,もし何も憎んでいなければこの喜びが人のうちに発生し得ないことは明白です。
この定理の証明Demonstratioは容易です。
第三部定理一三により,僕たちは僕たちに悲しみtristitiaを齎すものを表象すれば,そのものの存在existentiaを排除する事物を表象しようとするコナトゥスconatusが働きます。しかるに憎しみは第三部諸感情の定義七によって悲しみの一種なのですから,僕たちが憎んでいるものは僕たちに悲しみを齎していると表象しているものです。ですからそれが破壊されることを表象するimaginariこと,他面からいえば僕たちが憎んでいるものの存在を排除するものを表象することは,僕たちに喜びを齎します。なぜならそれは単に憎しみという悲しみが除去されているということではなく,悲しみを齎しているものの存在が排除されているということであり,こうした表象imaginatioは第三部定理一三で示されているようなコナトゥスを促進していると考えられるからです。
したがって,この種の喜びは憎しみという悲しみなしには存在し得ない喜びです。つまり悲しみがあることによって発生し得る喜びです。このために喜びとしての基礎はあまり固くないのです。
契約はしたもののなかなかその後の連絡がありませんでしたので,僕と母はやきもきしていました。契約書を交わしたのが4日でしたから,9日が経過していたわけです。妹の必要な荷物はこれより後ならばいつ搬入してもよいということでしたので,日時はこちらから指定させてもらいました。
12月14日,木曜日。荷物の搬入の日時が決定していましたので,この日にその荷物を運搬してもらう業者を決定しました。
12月15日,金曜日。妹の通所施設での保護者会がありました。これは母が行きました。荷物を搬入してしまえば妹もグループホームで生活するようになり,その場合は日野にある施設に通うことになります。ですからこの施設の保護者会に参加するのはこれが最後でした。そういう理由もあって母は自分が出向き,お礼や挨拶をしておきたいと思ったようです。少なくともこの頃の母は,これくらいの体力はありました。
12月16日,土曜日。妹の土曜出勤でした。土曜日はガイドヘルパーによるサービスがありませんから,これは僕が送りました。この日はクリスマス礼拝とパーティーが開催されましたが,参加したのは妹だけです。新しく通うことになる施設にも,名称は異なりますがこの土曜出勤に該当するものがあります。ただ,この施設での土曜出勤は妹にとってこれがラストでした。僕たちは妹に対して,11月14日に見学に行ったグループホームで暮らすようになるということ,またその場合には同じ日に見学に行った日野の施設で作業を行うようになるということは説明していました。ただ,知的障害者ですから,それをどこまで把握しているのかということは不分明なところがありました。もうすぐこの施設に通っている人たちや職員とはお別れになるということは理解していた筈ですが,たとえばここでの土曜出勤はこれが最後であるというような細かいことまできちんと理解できていたのかどうかは,今となっても分かりません。
12月19日,火曜日。この日が僕たちが荷物の搬入に指定した日でした。まず依頼した業者に来てもらい,すべての荷物は先にグループホームの近辺まで持っていってもらいました。