スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑰-7&補足

2021-04-05 19:01:14 | ポカと妙手etc
 おそらくその手は後手の読みにも無かったのだろうと思いますが,⑰-6の第1図で後手が指す手は☖9四同香しかありません。
                                        
 取る一手だということは僕にも分かっていましたが,先手がここからどう指し進めるのかということは不明でした。
 実戦の指し手は☗9一銀☖同王☗7三歩成です。
                                        
 第2図となって,先手の指し手の意味を把握することができました。それは後手に馬を取る余裕を与えない手順で,後手玉に詰めろを掛けるということです。6でいったように,僕はまだ先手の勝ちだと思って観戦していて,その見解はこの時点でも変化がありませんでした。異変に気付くのはもう少し進んでからです。

 第一部定理一六の意味は,神Deusの本性naturaの必然性necessitasに則するものであれば,どんなものであれ発生し,神の本性の必然性に反するものであれば,どんなものであっても発生しないということでした。発生するものは存在することになりますから,あるものが神の本性の必然性に則しているのなら,そのものは必然的にnecessario存在することになりますし,逆にあるものが神の本性の必然性に反しているのであれば,そうしたことは存在することが不可能なものであるということになります。神は自己原因causa suiなので必然的に存在するのですが,神の本性の必然性に合致するものについても,それと同じ意味において,必然的に存在するあるいは存在するようになるといわなければなりません、もっともこのことは,第一部定理二五備考で,神は自己原因であるといわれるのと同じ意味で万物の原因といわれるということから明らかでしょう。そこでいわれる万物とは,神の本性の必然性に合致しているものだけを対象としているということです。
 もしも神の本性の必然性に合致するもののすべてを十全に理解することができれば,僕たちは何が必然的に存在し,また何は存在することが不可能であるのかということのすべてを十全に知ることができるでしょう。ですがこのことを人間の精神mens humanaに要求することはできないと僕は考えます。したがって,あるものが必然的に存在するかどうかは分からないということが人間にはあるのであって,また逆に,人間が知り得ないようなものが必然的に存在しているということもあるだろうと僕は考えています。
 そうである以上は,第一部定理一六について,必然と不可能という反対概念だけによって説明するのでは不十分だといわれ得るでしょう。何となれば僕たちは何が必然的であるのかを十全に認識するcognoscereことができないがゆえに,混乱した観念idea inadaequataについてそれを肯定する意志作用volitioについても,それは不可能なのではなくて必然的であると強弁することもできないわけではないからです。そこで僕はこの種の問題についても解消するために,これとは異なった観点からの補足を加えておきます。それは思惟の様態cogitandi modiの実在的有entia realiaとはどのようなものであるのかという観点です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする