スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

流星③&情報過多

2021-05-14 19:09:04 | 歌・小説
 流星の1番はの後にさらに続きます。ただその部分はこの楽曲の中でリフレインされる部分ですので,後で紹介することにしましょう。
                                   
 2番の冒頭も,歌い手に話し掛けた長距離トラックの運転手の,歌い手に対することばです。

     おいらはこれから北の国まで となりはこれから南まで

 何台もの長距離トラックが停車していて,当然ながらそれぞれの行き先は異なります。おそらく同じところで停まると,運転手同士の間でも会話が交わされるのでしょう。この運転手は歌い手に話し掛けてきたくらいですから,たぶん話をすることが好きなのでしょう。だから隣の運転手の行き先も知っていたのだと思われます。

     便りのないのが良い便り どこかで会うかもしれねえな

 運転手は日本各地を走り回っています。一方,歌い手の方も歌を歌っているので,公演のために全国に出掛けるでしょう。このふたりがまた会うということは,可能性としてはとても低いでしょうが,それでも両者の立場からすれば,また会うということが絶対にないわけではないでしょう。

 Aの精神mensの現実的有actuale esseとBの精神の現実的有が異なるというのは,Aの精神の現実的有を構成している観念ideaと,Bの精神の現実的有を構成している観念が異なるということです。つまり第二部定理四九により,Aの精神のうちにある意志voluntasと,Bの精神のうちにうちにある意志は異なるということです。よって第二部定理四八により,Aの精神のうちに新たに発生する意志作用volitioと,Bの精神のうちに新たに発生する意志作用が,異なるということがあり得るのです。いい換えればAの精神のうちにもBの精神のうちにもXの観念が発生するとして,Aはそれを肯定するあるいはそれに同意するけれど,Bはそれを否定するあるいは同意しないということが生じ得るのです。
 このことは,Aの精神の現実的本性actualis essentiaとBの精神の現実的本性が異なっているがゆえに生じることであって,それ自体で人間に大きな問題を齎すものではありません。ただ,上述したことから理解できるのは,Aの精神の現実的有を構成している観念と,Bの精神の現実的有を構成している観念の相違が大きくなればなるほど,ある事柄を肯定するか否定するか,あるいはある事柄について同意するか同意しないかということが,AとBとの間で異なってくる場合もそれだけ大きくなってくるということです。よって,もしもAとBが,ある事柄,たとえばYに関する情報について,正反対の情報に接しているならば,Yに関連する事柄についての肯定affirmatioと否定negatio,あるいは同意と不同意もまた正反対になるでしょう。Aの精神の現実的有を構成している観念もBの精神の現実的有を構成している観念も,AとBが日常的に接している情報によって構成されることになるからです。
 こうしたことによって,僕が病理と称した現象が生じてきます。人間の精神は有限finitumであって,たとえばYについてそのすべての情報を得るということができません。このことはYについてだけに妥当するのではなく,すべての事物に妥当します。したがって人間は,情報が多くなればなるほど,それらを取捨選択せざるを得なくなります。現代社会は人間の精神mens humanaにとっては明らかに情報過多の社会ですから,これはだれもが行っていることです。
コメント
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