スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

高松宮記念杯競輪&公平

2021-06-20 19:23:48 | 競輪
 岸和田競輪場で行われた第72回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐守沢の北日本,吉田‐宿口の関東,松浦‐清水の中国で稲川と山崎は単騎。
 松浦がスタートを取って前受け。3番手に稲川,4番手に小松崎,7番手に吉田,最後尾に山崎という周回に。残り2周のホームの入口から吉田が上昇。誘導が退避するところで松浦を叩いて前に。この外から小松崎が上昇して,バックで吉田を叩き,先行態勢に入りました。しかし全力では駆けていかなかったため,打鐘から松浦が反撃。ホームで小松崎を叩いて松浦のかまし先行に。守沢の後ろの位置取りになっていた山崎がバックから発進。これに清水が番手捲りで対抗し,最終コーナーから直線の入口にかけては内の清水と外の山崎で猛烈なもがき合い。山崎の後ろから山崎を追ってきた関東ラインが直線ではもがき合う両者を逆転。番手から吉田を差し切った宿口が優勝。吉田が半車身差の2着で関東ラインのワンツー。最終コーナーから外を踏んだ守沢が半車身差で3着。
 優勝した埼玉の宿口陽一選手は前回出走の青森のFⅠから連続優勝。GⅠはこれが初めての決勝進出で,グレードレースもこれが初優勝。この開催は直前の練習中に骨折してしまった平原が欠場。郡司は二次予選で車体故障を起こして棄権になったため,松浦と清水の中国勢には大チャンスとなりました。これまでの傾向から,松浦が前を回る場合は今日のようなかまし先行になることもあるので,展開は想定内でした。ただこのラインにとって誤算だったのは,単騎になった山崎の巻き返しが早かったことで,このために清水もあまり余裕が持てない段階で番手捲りを打たざるを得なくなり,結果的にそのふたりが共倒れという形となってしまいました。ですからレース全体としては,山崎が中国ラインを粉砕するようなレースを敢行したため,このラインに乗る形になった関東勢が漁夫の利を得ることになったということになるでしょう。

 すべての国民に対して一律に同額の給付金を支給することが,公平であったか公平でなかったかというなら,公平ではなかったと僕は思っています。しかし,だからそのような政策を遂行したことが失敗であったかと問われれば,僕はそれが失敗であったとは考えていません。むしろ成功であった,いい換えればそれは遂行されるのに適切な政策であったと僕は考えているのです。
 僕がそのように判断している理由は,簡単にいうなら,民主主義社会における政治的な公平性は,現に公平であるか否かということよりも,その社会を構成する市民Civesの多くが,公平であると感じられるか感じられないかという点の方が重要であると僕は考えているからです。いい換えれば,人間的自由のうち,能動的自由に属する範疇で,それが公平であるか否かを判断することよりも,受動的自由のうちでそれが公平であると感じられるか感じられないかということの方が重要であると僕は考えているからです。これは端的にいえば,第四部定理四系により,市民社会を構成するすべての人間は,受動passioに隷属するからです。ここではこの点についてこれ以上の詳しいことは説明しませんが,たとえばスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,新約聖書が有用な書物であると主張しているのと,根本的には同じ理由であると考えてください。
                                   
 実際に経済的な打撃を受けた人,あるいは受けるであろう人だけを救済する,つまりそうした人だけに現金を支給するのと,とりあえずすべての人に同額の現金を支給し,打撃を受けた人に対してはさらに救済金を給付することを比べたときに,どちらが多くの人びとが公平であると感じられるのかといえば,後者であると僕は考えます。たとえば,原子力発電所の事故によって被害を受けたために給付金を支給されている人に対して,悪意をもって接するという人が現に存在するということはよく知られていますが,そうしたことが生じる根本的な部分に,給付を受けていない人が感じる不公平感があると僕は考えています。こうした不公平感の前では,原子力発電所が発電した電気の恩恵を最も受けていたのはだれなのかといったことは,消し去られてしまうのです。
コメント
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