スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

誤謬&統制

2021-06-05 19:01:15 | 哲学
 第二部定理三五の意味を僕がどのように把握しているかを説明しましたので,僕が虚偽と誤謬を厳密に分ける場合の誤謬errorが何を意味しているのかということも明確にすることができました。すなわちある人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるとき,それが混乱した観念であるということにその人間の精神が気付いていないとき,僕はその人間の精神が誤謬を犯しているといいます。あるいは僕は混乱した観念のことを虚偽falsitasといっているのですから,ある人間の精神のうちに虚偽があり,同時にそれが虚偽であるということに気付いていないとき,僕はその人間の精神が誤謬を犯しているというのです。
                                  
 このことは逆に,もしある人間の精神のうちに混乱した観念あるいは同じことですが虚偽があり,しかしそれが混乱した観念であるということ,それが虚偽であるということにその人間の精神が気付いている場合には,その人間は誤謬を犯していないということになります。僕がいう誤謬の条件を理解してもらうときに,最も気を付けておいてほしいのはこの点だといえます。つまり人間がある事物を混乱して認識したからといって,直ちにその人間が誤謬を犯しているとは僕はいわないということです。
 このことがスピノザの哲学では虚偽の積極性を構成すると僕はみています。つまり僕たちは虚偽を認識したとしても,それが虚偽であるということを知ることができるのです。そのとき虚偽は第四部定理一でいわれている積極的なものとして人間の精神のうちに現れます。なぜなら第二部定理一七備考でいわれているように,もし虚偽が虚偽であるということが必ず人間の精神によって知られるとするなら,虚偽を認識するcognoscereことは人間の精神にとっては欠点であるどころか長所になるからです。そしてそれが長所になり得るということを僕は重視しますので,虚偽と誤謬を明確に分けているのです。

 社会的分断を解消すること,あるいは社会的な分断を発生しにくくするということは,人間的自由を無視してしまうなら,そうも難しいことではありません。というのも,たとえば情報の分断が社会的分断の呼び水となったり促進させたりするということを念頭に置けば,そうした情報を操作してしまえばそれだけで分断も解消させることができるからです。ですから検閲を行うとか情報の統制を行うとかすれば,社会的分断はかなり発生しにくくなりますし.発生したとしてもそれを押さえつけやすくなるのです。こうしたことは現代でも行われているあるいは行われようとしています。たとえば香港とかビルマとかベラルーシとかいったところの現況をみれば,それは明らかだといっていいでしょう。
 このような手法を採用することに,国家Imperiumという観点からみたときの利益があるということは間違いありません。たとえば地球温暖化の防止の目標を達成することとか,新型コロナウイルスの感染を防ぐこととかいったような観点からみれば,情報の検閲や統制を行うような強権的な国家の方が,うまくいくであろうからです。というのはこうした国家においては,情報の統制がとれている分だけ紐帯が分裂しにくくなっていますし,紐帯が分裂しにくい場合は一致した行動がとられやすくなるからです。このことは情報の検閲あるいは統制が,真なるものを真なるものであると肯定するaffirmareことに向けられる場合であろうと,そうではなく国家に都合のよいことを真verumであると肯定することに向けられる場合にも同様です。
 一方でこうした体制が,崩壊するときにはわりとあっさりと崩壊してしまうということも,歴史が教える事実として僕たちは知っています。というのはある特定の紐帯だけが存在するという場合は,その紐帯が崩壊してしまえば全体も崩壊してしまいますし,それまでにあったのとは別の紐帯が一致して結ばれるという場合もあって,そうして新たに結ばれる紐帯が,それまでの体制を一気に打倒してしまうということが起こり得るからです。他面からいえば,体制を長期的に維持するということを中心に据えるのであれば,ひとつの紐帯だけに依存するのは危険なのです。
コメント
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