スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ひろしまピースカップ&確実性の条件

2019-12-16 19:09:29 | 競輪
 昨日の広島記念の決勝。並びは菅田‐守沢の北日本,根田‐岡村‐福田の南関東,原田‐橋本‐池田の四国中国で坂口は単騎。
 菅田がスタートを取って前受け。3番手に原田,6番手に根田,最後尾に坂口で周回。残り2周のホームから根田が上昇。坂口も続きました。バックで根田が菅田を叩いて前に。5番手に菅田,7番手に原田となって打鐘。4番手と5番手,6番手と7番手の車間が開いた形での一列棒状に。原田は最終周回のホームの出口から発進。徐々に前との差を詰めていきましたが,バックの出口から4番手の坂口が発進。この影響で原田は外に浮いてしまい圏外。直線は根田の番手から出た岡村が差して優勝。坂口の後から大外を捲り追い込んできた菅田が4分の3車身差で2着。岡村マークの福田が4分の1車輪差の3着で坂口は4分の1車輪差で4着。
 優勝した静岡の岡村潤選手は2016年6月の別府記念以来の記念競輪2勝目。このレースは脚力では原田が上なので,優勝候補の筆頭とみていました。後方からの捲りになったのは仕方がありませんが,ちょっと前との車間が開きすぎてしまったように思います。ただこのあたりは,根田に叩かれた後の菅田の対応の仕方が巧みだったからだともいえます。これで捲り切っていれば,菅田にとっては会心のレースだったことでしょう。根田の先行意欲と菅田の技術が原田には不利に働き,根田の番手の岡村に有利に働いたという結果でした。

 最も誠実なものを認識したならそれは神Deusであると定義づけたのですから,もしも神が認識されるなら,それは最も誠実なものすなわち人間を欺かないものと認識されます。このことが緒論の中で成立しているわけです。よって,人間の本性natura humanaの創造者が神のほかに存在し,かつそれが人間を欺くのであったとしても,神が人間を欺かないということについては確実である,他面からいえばそのことについては何ものにも欺かれていないということについて確実であるわけです。デカルトRené Descartesは神の存在existentiaが確実性certitudoの保証になるといったのに対し,スピノザはそれを人間の精神mens humanaのうちに神の真の観念idea veraがあることが確実性の保証になるといい換えたのですが,このいい換えた部分がここでは成立していますから,デカルトが実際にそれに同意するのかどうかは別として,スピノザの中ではデカルトに対する擁護にもなっています。
                                        
 僕の考えでは,このことは3つのレベルからいうことができます。第一に,ここで示したように,もし人間の本性の創造者が神以外に存在し,それが人間を欺くことがあったのだとしても,人間は神の観念idea Deiには確実であるということです。第二に,もし人間の本性の創造者が神以外に存在し,それが人間を欺くのか欺かないのかということは定かではないにしても,人間は神の観念については確実であることができるということです。第三に,人間の本性の創造者が神の外部にいるかどうかということを知らないとしても,人間は神の観念ついて確実であることができるということです。そしてこの第三のレベルは,たとえ人間の本性の創造者なるものが神の外に存在しないとしても,人間は神の観念について確実であることができるということを意味し得ます。すなわち,神の外部に人間の本性の創造者が存在するかしないかということは,人間が神の観念について確実性を有するための条件とは無関係であることになります。ですから当然ながらそういうものが神の外部に存在すると仮定した場合にも,それが人間を欺くか欺かないかということも,人間が神の観念について確実性を有する条件とは無関係であることになります。
 スピノザは第二のレベルで答えます。
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朝日杯フューチュリティステークス&神と創造者

2019-12-15 18:56:07 | 中央競馬
 第71回朝日杯フューチュリティステークス
 ロケットダッシュで飛び出したのがビアンフェ。すぐに2馬身ほどのリードを奪いました。2番手はペールエール,トリプルエース,サリオス,メイショウチタンの4頭の集団。さらにウイングレイテストとエグレムニの2頭が続いてこの6頭は一団。2馬身差でラウダシオン。ジュンライトボルト,マイネルグリット,プリンスリターンの3頭。レッドベルジュールとタイセイビジョンの2頭で続きこの6頭は一団。2馬身差でタガノビューティー。3馬身差でグランレイ。2馬身差でカリニートと残る3頭はばらばら。前半の800mは45秒4の超ハイペース。
 ビアンフェが先頭で直線に。メイショウチタンの外に出てきたサリオスがすぐに先頭に。サリオスはそこから抜け出す形となって快勝。勝ち馬を追ってきたタイセイビジョンが,最後は突き放されたものの2馬身半差で2着。後方から大外を追い込んできたグランレイが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したサリオスは6月に新馬を勝って一息入れ,10月のサウジアラビアロイヤルカップを制覇。3連勝で大レース初制覇。このレースは新馬,重賞と連勝していた馬が2頭いて,その争いとなるかと思っていましたが,もう1頭のレッドベルジュールが凡走となったため,差をつけて勝つことになりました。1600mで3連勝していますが,距離の延長を大きく苦にするということはないように思います。父はハーツクライ。7代母がアグサンの祖母にあたる同一牝系です。Saliosはローマ神話の登場人物名。
 騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手は一昨年のチャンピオンズカップ以来の日本馬に騎乗しての大レース10勝目。日本の大レースは8勝目。朝日杯フューチュリティステークスは第65回以来となる6年ぶりの2勝目。管理している堀宣行調教師は一昨年の宝塚記念以来の大レース18勝目。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。

 人間の精神mens humanaが最も誠実なものを認識したなら,それが神Deusの認識cognitioであるとすれば,知性intellectusを離れて存在する神は最も誠実なものであることになります。第一部公理六でいわれていることはどのような哲学であっても成立しなければならないと僕は考えますし,それに異論は出ないものと思います。繰り返しますが,実際にそのようなものが知性の外に存在するのか否かということはここでは問いません。最も誠実なもの,いい換えれば人間を絶対に欺かないものが神として認識されて,かつそれを認識した人間がそのことを疑い得ないということ,つまりそれについて確実であることができるということに注目してください。
                                        
 緒論においてはこのことが成立しています。すると,人間を欺くものがあるとすれば,それは神以外の何かでなければなりません。よってもし人間の本性natura humanaの創造者なるものが人間を欺くということがあるとすれば,それは神以外の何かでなければならないことになります。要するに人間の本性の創造者と神を同一視することはできないことになります。
 ただしこれは論理の上でそのようになるというだけで,実際にそのように解することが可能であるかどうか,他面からいえばそのようなものとして人間の本性の創造者が存在し得るかどうかは別のことです。そこでそのようなものとして人間の本性の創造者が存在し得るのかということを検討していきます。
 まず,人間が神を認識したら,神が最も誠実であるということについては疑い得ません。いい換えれば,神が人間を欺かないということについては確実性certitudoを有することになります。このとき,人間の本性の創造者が人間を欺くがゆえに,この確実性について人間は欺かれているということが成立するのかしないのかということが最も重要な観点になります。というのは,スピノザが想定している反論というのは,人間の本性の創造者が人間を欺くか欺かないかを知らないうちは,人間は何事についても確実であることはできないというようになっているからです。
 ところが前提条件から明らかなように,これは成立し得ません。これはここで神をどのように定義づけたのかということから明白でしょう。
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僕たちの将来②&別の観点

2019-12-14 18:48:22 | 歌・小説
 の最後で,ナイフに力を入れてステーキの肉を切りながら,彼女の質問をも切ってしまった彼は,そのときの想いを吐露します。

                                   

     ここは24時間レストラン
     危ないことばをビールで飲み込んだら
     さっき抱き合った宿の名前でも もう一度むし返そうか


 彼女がスパゲティを食べ,彼がステーキを食べているのは終日営業のレストランです。このレストランに来る前に,ふたりはどこかの宿で抱き合ったのですから,時間帯は深夜あるいは未明だと思われます。ふたりは食事のほかにビールも注文していて,彼のぶっきらぼうな答えの後にふたりでそれを飲みます。改めて乾杯したかもしれません。ですがそれは希望に満ち溢れた将来のための乾杯というよりは,将来への不安を飲み込んでしまう,忘れてしまうための乾杯です。
 このことは,その後の部分からより明瞭に理解できます。この部分は彼の想いだけであったかもしれませんし,あるいは実際にことばとして発せられたかもしれません。そしてこのことばが意味するところは,将来に対する漠然とした不安を飲み込んでしまうかわりに,楽しかった過去のことを話そうということです。つまり少なくとも彼が目を向けているのは,どうなってしまうのか分からない未来の方向ではなく,楽しかった過去の方向なのです。

 緒論でいわれている人間の本性natura humanaの創造者が,人間の精神mens humanaの創造者であるとして,それは神Deusであるか否かということは別の問題として考えなければなりません。スピノザの哲学でなら第一部定理二五によってそれは神である,とくに第二部定理六によって,思惟する限りでの神であるということになりますが,このことがデカルトRené Descartesの哲学においても成立するのかどうかは分かりませんし,とりわけデカルトの見解に対する反駁者がそのように想定しているかどうかも分からないからです。この部分は反駁に対する解答になっているのですから,とくに後者の部分はより大きな問題となるでしょう。そこで今度はこれをここまでとは異なった観点から考察していきます。
 スピノザは緒論の中で,人間が神を真に認識したなら,神が最も誠実であるということについては疑い得ないといっていました。スピノザがそのようにいう根拠は明らかにされていませんから,それは分からないのだとしても,反駁に対する解答という観点からいえば,このことは前提とすることができます。いい換えれば,神を真に認識したとしても,神が最も誠実であるということを認識することはできないという主旨の反論は成立しません。他面からいえば,あるものが認識されたときに,それが最も誠実なものであると認識し得るなら,それは神を認識しているということであると解することになります。もちろんこれに対しても,そもそもそのようなものを認識するcognoscereことはできないのではないかという疑問を提示することが可能であるということは僕は認めますが,実際のところは人間がそれを現実的に認識することができるかどうかということが問題ではないのであって,もしそのように認識することができたならそれは神の認識cognitioであるということが重要なので,このような反駁も成立しないとします。これはいい換えれば,人間によって認識されるものとしての神を,ここではそのように定義しておくという意味なのであって,そういうものが実在するかどうかは考慮の外に置き,神をこのように唯名論的に定義するということです。このことについてはスピノザの哲学における定義Definitioの要件を参考にしてください。
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書簡二&欺かれるもの

2019-12-13 19:14:06 | 哲学
 オルデンブルクHeinrich Ordenburgの書簡一に対するスピノザの返信が書簡二です。日付は書かれていませんが,1661年9月27日付でオルデンブルクからこの手紙を読んだ上での書簡が送られていて,書簡一は同年8月のものですから,同年9月前半から半ばに書かれたものでしょう。遺稿集Opera Posthumaに収録されました。
                                        
 書簡の冒頭はオルデンブルクに対する謝意の表明になっています。その後で,書簡一での質問に答えています。
 まず神Deusについてで,ここでは各々が自己の類において無限infinitumで最高完全な無限数の属性attributumからなる実有ensといわれています。第一部定義六と文言は異なりますが,齟齬はないといえるでしょう。さらにみっつのことをつけ加えています。第一に自然のうちには本性essentiaが異ならないふたつの実体substantiaは存在しないということです。第二に実体は産出され得ず,存在することが実体の本性に属するということです。第三に,すべての実体は自己の類において無限で最高に完全summe perfectumであるということです。第一の部分は第一部定理五,第二の部分は第一部定理六第一部定理七,第三の部分は第一部定理八に対応しているといえるでしょう。
 最後に,デカルトRené DescartesおよびベーコンFrancis Baconの哲学に含まれる誤謬errorへの言及があります。誤謬はみっつあり,第一に万物の第一原因causa primaについて真の認識cognitioをもたなかったこと,第二は人間の精神mens humanaの本性naturaの真の認識をもたなかったこと,第三に誤謬の真の原因を把握しなかったこととされています。スピノザがそのようにいう妥当性についてはここでは言及しません。スピノザはこれらの誤謬の根源は,人間の意志voluntasは自由libertasであって知性intellectusより広く及ぶとみなしている点にあるとみています。これは第一部定理三二第二部定理四九および第二部定理四九系に対応しています。

 スピノザは第二部定理三五の証明Demonstratioの過程において,誤るとか錯誤するとかいわれるのは人間の精神mens humanaであって人間の身体humanum corpusではないという主旨のことをいっています。これに倣って,欺かれるのは人間の精神であって人間の身体ではないということも可能であると僕は思います。しかし,デカルトRené Descartesの哲学を説明するときにも,このことを適用していいのかどうかということには微妙な点が残るのも事実だと思います。というのは,デカルトは感覚とか情念といったものを一律に身体現象として解するので,たとえばある種の感覚によって人間が欺かれるということがあり得るということはできると僕は思うので,このような意味においては人間の身体が欺かれるといういい方も成立すると判断することもできると思うからです。よって,人間の本性natura humanaの創造主が人間を欺くことがあるか否かということが論旨になっている部分で,人間が欺かれるとすればそれは人間の精神が欺かれるのであるというように結論することは避けておきます。他面からいえば,人間の身体が欺かれるといういい方が,デカルトの哲学においては可能であると解しておきます。気を付けてほしいのは,僕がここでそのように解するというのは,考察の安全性の面からそういうのであって,デカルトはそのように解しているということを主張するものではないということです。
 ただし,確実性certitudoに関して欺かれるとすれば,それはやはり人間の精神が欺かれるのであって,人間の身体が欺かれるのではないと僕は考えます。というのは,確実性というのは人間が何事かを認識したときに,それが確実であると知ることができるということを意味するのであって,これを人間の身体の作用に還元するのは不可能だと考えるからです。何事かについて確実であると認識するcognoscereにせよ確実ではないと認識するにせよ,それは人間が思惟作用としてそう認識するのであって,これは人間の精神の作用についての言及です。ですからそのことについて人間が欺かれるとすれば,それは精神が欺かれるのであって,身体が欺かれるとはいえません。よって人間の本性の創造者というのは,この文脈では人間の精神の創造者と解するべきでしょう。
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デイリー盃クイーン賞&デカルト哲学への応用

2019-12-12 19:10:48 | 地方競馬
 昨晩の第65回クイーン賞
 クレイジーアクセルがハナに立つとほかはすぐに控えました。2番手にラインカリーナ。3番手はミッシングリンクとプリンシアコメータ。5番手がナムラメルシーとトーセンガーネット。7番手のオルキスリアンまでは一団。4馬身差でナラとアルティマウェポン。アンデスクイーンが直後に続いてこの3頭も一団。4馬身差でスターレーン。さらに4馬身差の最後尾にナムラアヴィという隊列。最初の800mは49秒0のハイペース。
 向正面半ばでプリンシアコメータがラインカリーナの外に並び掛けていき,逃げたクレイジーアクセルとの3頭は雁行に。2馬身ほど離れてミッシングリンクが追い掛けていく形に。前の雁行は3コーナーから4コーナーにかけて続き,真中のラインカリーナが最初に脱落。優勝争いは2頭になりましたが,逃げたクレイジーアクセルがプリンシアコメータに抜かれることはなく,最後は再び突き放す形で逃げ切って優勝。2馬身半差の2着にプリンシアコメータ。追ってきたミッシングリンクに迫られるとまた伸び返したラインカリーナが半馬身差で3着。ミッシングリンクはクビ差で4着。後方から大外を差してきたアンデスクイーンはクビ差の5着まで。
 優勝したクレイジーアクセルは水沢に遠征した8月のビューチフルドリーマーカップ以来の勝利。重賞は初制覇。このレースは斤量の差が大きくなるのですが,背負っている馬が勝つというのが過去の傾向だったので,52キロのこの馬は入着はあっても勝つまでは難しいのではないかと思っていました。ただ,過去の戦績からはこの斤量なら勝てておかしくなかったのも事実で,今年は斤量差が確かに結果に反映したといえそうです。逃げればそれなりに粘れる馬ですので,また斤量が重くなっても,スムーズに逃げられれば重賞で通用するとみておいた方がいいのではないでしょうか。母の父はサクラバクシンオー。祖母の父はスペシャルウィーク。4代母がステラマドリッドで3代母のふたつ下の半妹に2002年のJRA賞で最優秀3歳以上牝馬に選出されたダイヤモンドビコー
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手南部杯以来の重賞5勝目。クイーン賞は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は2015年のマーキュリーカップ以来の重賞2勝目。

 第二部定理六は,各々の属性attributumの様態modusがどのような意味で神Deusを原因causaとするのかを示します。そこでいわれているように,各々の様態はそれが様態となっている属性の下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。よって人間の身体humanum corpusおよび本性essentiaは,延長の属性Extensionis attributumの下では神を原因とするのですが,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。同様に人間の精神mens humanaおよびその本性は,思惟の属性Cogitationis attributumの下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下で神を原因とすることはありません。よって人間の身体およびその本性も,人間の精神およびその本性も,神を原因とはするのですが,それは異なった属性の下で神を原因とするのです。スピノザの哲学で人間の本性の創造者すなわち起成原因causa efficiensは,人間の本性natura humanaをどのように考えたとしても神であるという結論には,このような原則があるのです。
                                   
 この原則を踏まえたなら,このことをデカルトRené Descartesの哲学の説明のためにそのまま利用することができないということは明白です。なぜなら,デカルトは物体的実体substantia corporeaというのを神とは異なった実体として規定しているのですから,もし人間の本性というのが,人間の精神ということを意味するならその創造者すなわち起成原因は神であることになるでしょうが,もし人間の身体あるいはその本性という意味であるなら,またはそのような意味も含むということであるなら,神ではない物体的実体がその創造者つまり起成原因である可能性が残るからです。なので『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』において人間の本性の創造者といわれるのであれば,この人間の本性というのが何を意味しているのかということは,別の仕方で考えなければなりません。
 まず,ここでの論点となっているのは,そういう人間の本性の創造者が人間を欺くことがあるか否か,また人間を欺くことがあるか否かを当の人間が確実に知ることができるのかということでした。したがって,仮にその創造者が人間を欺くと仮定するなら,人間は欺かれる,必ず欺かれるかそうでなくとも欺かれる場合があることになります。このとき欺かれるのは人間の身体なのか精神なのかをまず考えていきましょう。
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スマートファルコン&起成原因としての神

2019-12-11 19:16:08 | 名馬
 先月のローレル賞を勝ったブロンディーヴァの父は地方競馬場での重賞を勝ちまくったスマートファルコンです。
 父はゴールドアリュール。3代母がアリアーン。10歳上の半兄に1999年に東京大賞典を勝ったワールドクリーク
 2歳10月に新馬戦を勝利。3戦目に500万を勝つと年明け初戦の芝のオープンを勝ちました。クラシックを目指しましたが共同通信杯が7着,アーリントンカップが10着。皐月賞はキャプテントゥーレの18着。ここで芝に見切りをつけてジャパンダートダービーに回って2着。8月に古馬相手のオープンを勝った後,10月の白山大賞典で重賞初勝利。JBCスプリントは2着でしたが浦和記念,兵庫ゴールドトロフィーと連勝して3歳暮れまでで重賞3勝。
 4歳になり佐賀記念,名古屋大賞典,かきつばた記念,さきたま杯と重賞4連勝。マーキュリーカップで2着になり連勝は6で止まりましたが続くブリーダーズゴールドカップを勝ちました。浦和記念はなぜか7着と大敗。4歳では重賞5勝。
 5歳初戦のかきつばた記念を勝つと続くさきたま杯も連勝。久々の大レース出走となった帝王賞フリオーソの6着。日本テレビ盃もフリオーソの3着に敗れましたがJBCクラシックで大レース初制覇を達成すると浦和記念,東京大賞典も制覇。5歳では重賞5勝,大レース2勝。NARグランプリのダートグレード競走特別賞馬になりました。
 6歳の初戦は東日本大震災の影響で日程が繰り下がったダイオライト記念でこれも優勝。ここから帝王賞,日本テレビ盃,JBCクラシック,東京大賞典と勝ち続け,6歳では重賞5戦5勝,うち大レースを3勝。この年も当然ながらNARグランプリのダートグレード競走特別賞馬に。
 7歳初戦の川崎記念で連勝を9に伸ばし大レース6勝目。この後,ドバイに遠征してドバイワールドカップに出走。発馬で後手を踏み10着に敗れ現役を引退しました。
 3歳10月に白山大賞典を勝って以降は,JRAのレースには一切出走しなかったという珍しい馬。ただこういう馬は種牡馬として高く評価されるというのは難しいのではないかと思います。地方重賞の勝ち馬はブロンディーヴァも含めて5頭いて,そのあたりが種牡馬としての活躍の舞台になるのではないでしょうか。

 スピノザの哲学では,人間の身体humanum corpusであろうと人間の精神mens humanaであろうと,それ自体であれその本性essentiaであれ,その起成原因causa efficiensは神Deusです。しかしこれをいうときには,以下の点に注意しなければなりません。
                                   
 第一部定義六から分かるように,スピノザの哲学における神は,無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成されます。このとき,本性を構成する属性をふたつ抽出すると,それらふたつの属性の区別distinguereは実在的区別です。いい換えれば,スピノザの哲学における神は,無限に多くの実在的に区別される属性によってその本性を構成されていることになります。そして第一部公理五により,実在的に区別されたものは一方を認識するcognoscereことによって他方を認識することができません。したがって,神の本性を構成するある属性を認識したとしても,それ以外の属性を認識することはできないのです。一方,第一部公理四により,原因causaと結果effectusとの間には認識cognitioの依存関係があります。よって実在的に区別されるものの間に因果関係が発生することがありません。これは第一部定理三でもいわれていることです。
 人間の身体というのは延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisです。人間の精神は思惟の属性Cogitationis attributumの個物です。あるいは他面からいえば,人間の身体の観念ideaすなわち延長の属性の個物の観念です。よって人間の身体と人間の精神は実在的に区別されなければなりません。そして実在的に区別されるものの間では因果関係は発生しないのですから,人間の身体の起成原因と,人間の精神の起成原因も実在的に区別されなければならないことになります。つまり,人間の身体およびその本性も,人間の精神およびその本性も,同じように神を起成原因とはするのですが,実在的には区別されるのです。
 これは不条理のように思われるかもしれませんが,神が無限に多くの属性によってその本性を構成されているということに注意するなら,不条理ではありません。延長の属性も思惟の属性も同じように神の本性を構成するのであれば,延長の属性を起成原因として発生する結果も,思惟の属性を起成原因として発生する結果も,同じように神を起成原因とするということができるからです。これをもっと具体的に考えます。
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九十九島賞争奪戦&人間の本性の意味

2019-12-10 19:02:48 | 競輪
 8日の佐世保記念の決勝。並びは吉田に井上‐小川の九州,野原‐古性‐村上の近畿,太田‐小倉の徳島で山中は単騎。
 小倉がスタートを取って太田の前受け。3番手に山中,4番手に吉田,7番手に野原で周回。まず野原から動きましたが,吉田が合わせ,残り2周のホームで太田を叩いて誘導が退避。その外を上昇した野原がバックで吉田を叩いて打鐘。最後尾になった山中が単騎で発進。バックで古性の横まで行くと,古性がそれをブロックして番手捲り。山中を追いかける形になった吉田もこのあおりを受けてやや失速。8番手まで引いていた太田が最後に発進し,最終コーナーで大外を回って前を射程圏に入れると,直線も外からまとめて差し切って優勝。番手から出た直線先頭の古性が4分の3車身差で2着。古性マークの村上が半車身差で3着。
 優勝した徳島の太田竜馬選手は9月の岐阜記念以来の優勝で記念競輪4勝目。佐世保記念は初優勝。ここは明らかに力が上なので,最有力候補とみていました。位置は悪くなりましたが,野原の先行ならあの位置からの捲りでも大丈夫とみて,自分のタイミングで駆けていったのだろうと思います。実際に大外を回って前をすべて捲り切ってしまったのですから,ここでは力が上だったという評価でよいものと思います。野原と吉田ではマークした選手の関係から野原の方が先行意欲は高い筈で,それを太田が捲ってしまえばこの結果は十分にあり得るものでしたから,万車券になったのはやや意外でした。

 スピノザが人間の本性natura humanaという場合には,第一義的には人間の精神mens humanaのことを意味します。これには理由があるのですが,それは現在の考察とは無関連なので,説明は割愛します。ここでは緒論の中で人間の本性の創造者,すなわちすでにみたように人間の本性の起成原因causa efficiensという意味のことがいわれているときの人間の本性を,人間の精神と理解してよいのかということを探求します。
                                   
 まずここでもスピノザの哲学の中での探求から開始します。スピノザは人間の本性という場合に人間の精神を意味させようとするのですが,それは人間の身体humanum corpusには本性がないということを意味しているわけではありません。第二部定義二から容易に類推できるように,存在するどんな事物にも固有の本性があるのであり,人間の身体が存在することは当然ながら否定することができませんから,それにも固有の本性があります。たとえば現実的に存在する個々の人間の身体ということでいえば,第五部定理二二ではそうした人間の身体の本性といわれていますから,スピノザが人間の身体にも本性があることを認めているということははっきりします。同時に,第一部公理三により,原因すなわち起成原因が与えられなければ結果effectusが生じることは不可能なのですから,人間の身体には起成原因があり,また人間の身体の本性にも起成原因があるということが分かります。もちろんこのことは,スピノザが単に人間の本性ということで意味させようとしている人間の精神の場合にも妥当します。いい換えれば,人間の精神にもまた人間の精神の本性にも,それぞれ起成原因があることが分かります。そこで再び第一部定理二五を参照すれば,その起成原因が神Deusであるということも分かります。つまり人間の精神であれ人間の身体であれ,それ自体もまたその本性も起成原因すなわち緒論のテクストに倣えばその創造者は神であることになります。よって,スピノザの哲学において考えるのであれば,人間の本性というのが人間の精神であるのかどうかはあまり考えなくても構いません。たとえそこに人間の身体の本性が含まれているとしても,その創造者といわれるなら,それが神であることに違いはないからです。
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香港国際競走&創造者

2019-12-09 19:21:41 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われた昨日の香港国際競走。今年は4レースに9頭の日本馬が遠征しました。
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。グローリーヴェイズは7番手,ラッキーライラックが11番手,ディアドラが13番手。ディアドラは向正面で最後尾に下がりました。グローリーヴェイズはよい手応えで最終コーナーで5番手に。ラッキーライラックがその外に並び,ディアドラは後方から大外に。グローリーヴェイズは直線で逃げた馬の外に出し,差して先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。ラッキーライラックはフィニッシュ前に逃げ馬を差して3馬身半差の2着。ディアドラは逃げ馬までは追いつかず,グローリーヴェイズから4馬身4分の1差で4着。
 優勝したグローリーヴェイズは日経新春杯以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。この距離は日本馬のレベルが高く,3頭ともチャンスがあるとみていました。この馬に関してはシャティン競馬場の適性が不安だったのですが,問題なかったようです。父はディープインパクト。祖母の父はメジロライアン。5代母がアマゾンウォリアーで3代母がメジロラモーヌ。Vaseは壺。
 日本馬による海外GⅠ制覇はコックスプレート以来。香港ではクイーンエリザベスⅡ世カップ以来。香港ヴァーズは2016年以来の3勝目。騎乗した香港のジョアン・モレイラ騎手は昨年のエリザベス女王杯以来となる日本馬に騎乗しての大レース6勝目。香港ヴァーズを日本馬で勝ったのは2016年以来の2勝目。管理している尾関知人調教師は2017年のスプリンターズステークス以来の大レース3勝目。海外重賞は初勝利。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。ダノンスマッシュは発馬で1馬身ほどの不利。9番手を追走しその位置のまま直線へ。外に出されましたが前と同じような脚色で勝ち馬から2馬身半差の8着。
 香港マイルGⅠ芝1600m。アドマイヤマーズが5番手,インディチャンプとノームコアが並んでその後ろ。さらにその直後にペルシアンナイトと追走。ノームコアは最終コーナーでアドマイヤマーズの外へ。インディチャンプは内を回り,ペルシアンナイトがその外へ。アドマイヤマーズが外に並び掛けてきたノームコアを振り切ると,逃げ馬を差し,大外から追い込んできた馬も凌いで優勝。ノームコアは勝ち馬から2馬身差で4着。ペルシアンナイトはそこから4分の1馬身差で5着。インディチャンプは行き場がない形で勝ち馬から3馬身4分の1差で7着。
 優勝したアドマイヤマーズNHKマイルカップ以来の勝利で大レース3勝目。秋になって古馬相手のレースで苦戦していましたので,半信半疑でした。ただこの馬は瞬発力にはやや劣るタイプなので,日本の馬場よりは香港の馬場の方が向いていたかもしれません。父はダイワメジャー
 日本馬による香港マイル制覇は2015年以来の4度目。騎乗したフランスのクリストフ・スミヨン騎手はエリザベス女王杯以来の日本馬に騎乗しての大レース4勝目。管理している友道康夫調教師は菊花賞以来の大レース14勝目。2017年のドバイターフ以来となる海外重賞3勝目で海外GⅠ2勝目。
 香港カップGⅠ芝2000m。ウインブライトは外の3番手を追走。3コーナーの手前で一旦は4番手に。直線に入ると前をいく2頭の外へ。残り150m付近で先頭に立つと,内から猛追してきた馬の差しを一杯に凌いで優勝。
 優勝したウインブライトはクイーンエリザベスⅡ世カップ以来の勝利で大レース2勝目。春に比べて秋2戦の内容はいまひとつだったため,全面的な信頼は置きにくかったのですが,この馬もシャティン競馬場の馬場が向くようです。父はステイゴールド。母の父はアドマイヤコジーン。5代母はミスブゼン
 日本馬による香港カップ制覇は2016年以来の6度目。騎乗した松岡正海騎手はクイーンエリザベスⅡ世カップ以来の大レース5勝目。海外重賞2勝目。管理している畠山吉宏調教師はクイーンエリザベスⅡ世カップ以来の大レース3勝目。海外重賞2勝目。

 スピノザが想定した反駁の中で,人間の本性natura humanaの創造者ということで何をいわんとしているかを考えておかなければなりません。
                                        
 まずスピノザは,自身の哲学では創造者という語はまず用いません。これは創造者という語が,何かを意図的につまり自由な意志voluntasに基づいて創造する者というイメージを抱かせてしまうからだと思います。ですからまずそれが何の創造者であるのかは脇に置いて,創造者というのが何を意味するのかを決定しておきます。
 スピノザの哲学では,第一部定理一五にあるように,神なしには何もあることも考えることもできませんnihil sine Deo esse, neque concipi potest。ですから人間あるいは人間の本性もまた神なしにはあることも考えることもできないことになります。そして第一部定理二五は,神Deusはものの存在の起成原因causa efficiens rerum existentiaeであると同時にものの本性essentiaeの起成原因でもあるということを示しています。人間は当然ながらここでいわれているもののうちに含まれますから,人間の存在も人間の本性もその起成原因は神であることになります。しかし神が人間の創造者であるといういい方をスピノザが避けるのは,それが神の自由意志voluntas liberaによって起成原因であるわけではないからです。神は自由意志によって働くagereものではなく,本性の必然性によって働くものなのです。
 したがって,創造者ということで何がいわれているのかとすれば,それは自由な意志による起成原因であるということだと想定できます。あるいは,自由な意志による場合も含むような起成原因であると想定できます。したがってここでは,人間の本性の創造者ということを,人間の本性の起成原因であるというように解釈しておきましょう。神が本性の必然性によって働くというのは,スピノザが無神論者といわれるようになった理由のひとつであって,そこに自由な意志による起成原因と解釈できるようないい方をしておけば,このような無神論に関連する問題,デカルトRené Descartesの哲学に対する反駁に答えようとすることからいえばまったく関係を有さないような問題について,それを避けることができます。とくにキリスト教では神が創造主とされますから,キリスト教徒にも同意できるようないい方をする目的があったとみておきます。
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阪神競馬場開設70周年記念農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&正当な反駁

2019-12-08 18:47:38 | 中央競馬
 第71回阪神ジュベナイルフィリーズ
 レシステンシアが楽に先頭に。2番手はウーマンズハートとロータスランド。4番手にマルターズディオサ。5番手はボンボヤージとエレナアヴァンティ。7番手にクリスティ。好発から下げたヤマカツマーメイドが8番手に。9番手はクラヴァシュドール。その後ろにカワキタアジン,オータムレッド,ジェラペッシュ,ルーチェデラヴィタの4頭が横並び。ここまでは一団。スウィートメリナ,ヒメサマ,リアアメリアの3頭が2馬身差で最後尾を追走。前半の800mは45秒5のハイペース。
 直線に入ると逃げるレシステンシアが2番手以下を突き放しました。追っていた馬は苦しくなって脱落。レシステンシアはそのまま後続との差を広げる一方で,鮮やかに逃げ切ってレコードタイムで優勝。マルターズディオサとクラヴァシュドールの2頭が2着を激しく争い,内のマルターズディオサが制して5馬身差の2着。クラヴァシュドールがハナ差で3着。
 優勝したレシステンシアは10月に新馬を勝つと先月のファンタジーステークスも制覇。重賞連勝,デビューから3連勝で大レース制覇。ここは同じように新馬,重賞と連勝していた馬がほかに2頭いて,それらの争いとなるかとみていましたが,結果的にはスピード能力が一枚も二枚も上だったようです。来春は桜花賞では有力候補でしょうが,距離が伸びるのがプラスになるようにはあまり思えません。父はダイワメジャー。Resistenciaはアルゼンチンの地名。
 騎乗した北村友一騎手は秋華賞以来の大レース4勝目。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している松下武士調教師は開業から4年9ヶ月で大レース初勝利。

 もうひとつ,これと同じように僕には思える箇所があります。僕の考えではこちらの方が決定的なのですが,スピノザはこれについて,人間を欺くものを神Deusとは異なるものであるかのように記述していて,もし本当にそのように理解できるのであれば,これはデカルトRené Descartesの考え方との矛盾を逃れるようにはなっています。ですが僕の理解では,その人間を欺くものを神とは異なるものと解するのは無理があるのです。
                                        
 この部分は,人間がある真の観念idea veraを有したときに,それが欺かれているか否かということに特化した説明の中に現れます。そして同時に,スピノザがデカルトの哲学の解釈になした変更,すなわち人間の精神mens humanaのうちにある真の観念を保証するのは神の存在existentiaであるわけではなく,その人間の精神のうちに神の真の観念があるということであるということが前提となっています。これらふたつの事柄に注意しておいてください。
 スピノザは,神の真の観念が人間の精神のうちに存在するということが,神以外の真の観念の確実性を保証するのであれば,これに対する反駁は以下のようなものになるであろうと想定しています。第一に,人間は神の真の観念を有さないうちはどんなものに対しても確実であることはあり得ない。第二に,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを知らない限り,人間は神の真の観念を有することができない。第三に,人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らない限り,人間は何事についても確実であることはできない。このうち第一のものはスピノザが示した条件を満たす事柄です。そして以下のふたつは三段論法によって,人間がどんなものについても確実であることができる条件,すなわち人間の本性の創造者が人間を欺かないことを知っているという条件の下でしか,人間はどんなものについても確実であることはできないということを示そうとしています。
 このうち第二の条件が本当に成立するのかどうかは,厳密にいうと僕は怪しいと思いますが,スピノザはこの三段論法自体は成立すると仮定した上で,その部分は否定するという解答を与えていますので,僕もここではこの三段論法自体は成立しているとみなします。
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竜王戦&スピノザの説明

2019-12-07 20:32:12 | 将棋
 藩校養老館で指された第32期竜王戦七番勝負第五局。
 豊島将之名人の先手で角換り相腰掛銀。後手の広瀬章人竜王が千日手を打開して攻めにいきましたので,そのあたりは後手がよかったものと思います。
                                        
 後手が桂馬を打った局面。これはあまりよくなかったかもしれません。
 ここから先手は☗5四桂と捨てて☖同歩に☗7五角と王手。☖5三銀もあったと思いますが☖5三桂と合駒をしました。先手は☗6六角
 ここで☖7七桂成☗同角☖8八銀はあったかもしれません。ただこれは☗3四桂と打つ王手があるのでそれを避けて☖3五金と取りました。歩を取りつつ2二の銀にもひもをつける手ですが代償に☗2一飛と打たれました。先手はそこから☖7七桂成☗同角☖8八銀と進めました。
                                        
 ここは☗3一銀と打つ手も有力ですが,☗2二飛成☖同飛成☗同角成を選択。これは先手玉が詰んでしまったら仕方がないという手順です。
 ここから☖8九銀不成☗9七玉☖8五桂☗同歩☖8六角☗同玉☖7四桂☗8七玉。
                                        
 ここで☖8六歩と打っても詰まないため☖8六銀から2二の馬を消す手順に進めましたが,渡した駒が多すぎ,先手が抜け出すことになりました。
 4勝1敗で豊島名人が竜王を奪取。竜王は初の獲得。通算では4期目のタイトル獲得です。
 
 スピノザが緒論で行っている説明は,これとは逆になっています。平面上に描かれた三角形を真に認識した場合,三角形の内角の和が二直角であるということを疑い得ないように,神Deusを真に認識したなら神が最も誠実であること,すなわち神が人間を欺くことはないということを疑い得ないというように説明されているからです。そしてこの部分だけを抽出すれば,こうした説明が可能になるのは,三角形の真の観念idea veraが含む確実性certitudoと神の真の観念の確実性とが同等とみなされる限りにおいてだと僕には思えるのです。なぜなら,三角形の真の観念の確実性が神の観念の確実性によって担保されなければならないのだとしたら,いくら三角形の観念についての確実性によって神の観念の確実性を説明したところで,当の三角形の観念の確実性が神の観念の確実性に依拠する以上,三角形の観念の確実性自体に疑義が呈されることになるからです。そしてそれに疑義が呈されてしまえば,それによって神の観念の確実性について説明することはできないでしょう。すなわちこの説明が可能になっているのは,三角形の真の観念の確実性と神の真の観念の確実性が等価的に評価される場合なのです。他面からいえば,確実性が真の観念と等価であるとされている場合なのです。もし確実性が真の観念と等置できるのであれば,三角形の真の観念の確実性は,三角形の真の観念だけに依拠することになりますから,それが確実であるように,神の真の観念も確実であるという説明が可能になるでしょう。
 全体の論旨の中では,確かにこの部分も,神の真の観念によってすべての真の観念の確実性が担保されるということと齟齬を来さないようになっています。ですがこの説明の仕方は,真の観念と確実性が等置されていなければ成立しないのであって,スピノザがこのような説明をしたのは,デカルトRené Descartesの哲学に対する反駁に答えようとしつつ,スピノザ自身の考え方が表出してしまったからではないかと僕は思うのです。いい換えればこの時点ではスピノザは実際はデカルトの見解と反し,真の観念と確実性は等置でき,確実性のためにはそれ以外の何も必要としないと考えていたのでしょう。
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リコー杯女流王座戦&齟齬

2019-12-06 19:30:24 | 将棋
 一昨日の第9期女流王座戦五番勝負第四局。
 里見香奈女流王座の先手で自身が誘うような形で西山朋佳女王のノーマル三間飛車になりました。途中は後手がリードし,その後にまた混戦に戻るという展開。
                                      
 先手が8七に銀を打ち,後手の馬が8六から引いたところ。
 ここで☗7六飛と歩を払ったのですが,この手はあまりよくなかったと思われます。後で指された手でいえば☗5三歩と打って攻め合う方が優ったのではないでしょうか。
 後手は☖6五銀と打ちました。先手は☗8六飛と逃げたのですが,これもおそらくよくなく,ここに至っては自信がなくても☗7五銀と打つほかなかったと思います。
 後手は☖7四桂とさらに飛車を攻めました。これは逃げるほかなく☗2六飛。後手は☖8六歩と打ちました。
                                      
 第1図から第2図への進展をみると,先手は歩を一枚入手して飛車がひとつ寄っただけ。これに対して後手は玉頭が手厚くなって大きな楔も打ち込めました。これでは後手の得の方が大きく,はっきりとした差がついたといえそうです。
 3勝1敗で西山女王が女流王座を奪取。女流王座は初獲得で通算4期目のタイトル獲得です。

 説明としては成立している,とりわけ緒論の全体の論旨の中では成立しているとみることができるのですが,その説明でいわれていることだけをとくに抽出してみた場合には,それはむしろデカルトRené Descartesの哲学とは齟齬を来してしまうのではないかとみることが可能だと僕は思います。
 スピノザがいうには,デカルトの哲学では,もし神Deusの真の観念idea veraがある人間の精神mens humanaのうちにある場合には,その人間の精神のうちにあるすべての真の観念の確実性certitudoが保証されるのです。他面からいえば,もしある人間の精神のうちに神の真の観念がないという場合には,その人間の精神のうちにある神以外のどんな観念の確実性も保証されることはないのです。すでに説明したように,これはスピノザによるデカルトの哲学の改変であって,デカルトがそれを本当に是認するかは僕には疑問です。ですがスピノザはこういう改変が可能であると考えていたからこそ『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』という書物の,自身による執筆においては冒頭にあたる緒論の部分でこれを示しているのですから,解釈を変更したこと自体の正当性についてはここでは問うことはしません。ただ,ある人間の精神のうちにある神以外のすべての観念の確実性が,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠しなければならないという点を重視します。
 ある人間の精神のうちに,平面上に作図された三角形の真の観念があると仮定しましょう。この真の観念の確実性,あるいはこの真の観念から流出してくる三角形の特質proprietasの観念のすべての確実性は,その人間の精神のうちにある神の真の観念に依拠することになります。したがって,その人間が神の観念について確実であるように,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということについても確実であるといわれるならば,これはデカルトの哲学と齟齬を来さない説明だと読解することはできると僕は思います。厳密にいうと,この説明ですら,神の真の観念についての確実性と三角形の真の観念の確実性とを等置しているとみることは可能ですが,すべての確実性の根拠となる神の真の観念を例材として,三角形の真の観念の確実性を説明することは許容できると思うのです。
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勝島王冠&誠実

2019-12-05 19:06:49 | 地方競馬
 昨晩の第11回勝島王冠。楢崎騎手が前日の落馬の影響による左胸部の疼痛のためムサシキングオーは町田騎手に変更。
 好発はリコーワルサー。周りの様子を窺いながらでしたが成行きのような形で逃げることに。2番手がウマノジョーで3番手にカンムル。この後ろはドリームドルチェ,グレンツェント,ノンコノユメ,ムサシキングオーの4頭。さらにモジアナフレイバーとバルダッサーレ。サブノクロヒョウ,ディアドムスと続きピアシングステアとハセノパイロ。サウンドトゥルー,マイネルバサラの順で15頭は集団。ゴーディーだけが3馬身ほど置かれました。最初の800mは51秒1で超スローペース。
 リコーワルサーとウマノジョーの雁行で3コーナーを回るとノンコノユメが外から進出。それをマークするようにモジアナフレイバーも追い上げてきました。コーナーの途中でウマノジョーは一杯になりノンコノユメが単独の2番手に。直線に入ると逃げるリコーワルサーとノンコノユメの競り合いになりましたが,持ったままで進出していたモジアナフレイバーが2頭の外から楽々と差し,そこからは抜け出して快勝。リコーワルサーを競り落として2番手に上がったノンコノユメに,控えることで持ち前の差し脚を発揮したサウンドトゥルーが迫りましたが,ペースの影響もあって届かず,ノンコノユメが2馬身差で2着。サウンドトゥルーが半馬身差で3着。
 優勝したモジアナフレイバー大井記念以来の南関東重賞3勝目。勝島王冠は第10回からの連覇。昨年より斤量が5キロ増えていたのですが,差がつきにくいペースだったことを考えれば,増量が問題にならないくらいの能力差があったとみていいでしょう。この距離では南関東では現役最強で,東京大賞典は相手にもよりますが入着は期待できるレベルにあると思われます。3代母はパテントリークリア。母の6つ下の半弟に一昨年の高松宮記念と昨年の函館スプリントステークスを勝っている現役のセイウンコウセイ。Mogianaはブラジルの地名。
 騎乗した浦和の繁田健一騎手は大井記念以来の南関東重賞9勝目。勝島王冠は連覇で2勝目。管理している大井の福永敏調教師は南関東重賞3勝目。勝島王冠は連覇で2勝目。

 スピノザは緒論の中で,神の観念idea Deiについて,その観念は神が最も誠実なものであることを肯定させずにはおかないといっています。つまり人間の精神mens humanaのうちに神の真の観念idea veraが存在するなら,その人間は神が最も誠実であることを肯定するといっていることになります。それが神の本性essentiaに属するのか,それとも本性から必然的にnecessario流出する特質proprietasであるのかは当該部分では明らかにされていませんが,とにかく神を真に認識しさえすれば,その人間は神が最も誠実であるということについてはそれを肯定することになるのです。
                                        
 これはデカルトRené Descartesに対する反駁のうち,神が人間を欺くのか否かということと関連します。神が最も誠実であるというのは,神が人間を欺くことはないということを意味するからです。ですから緒論の論点の中でこの部分が意味をもつのは,人間が神を真に認識したなら神が人間を欺くことはないということをその人間は同時に知るので,その神の真の観念によって保証される,というのはスピノザがデカルトの哲学に対してなした解釈の変更に依拠することになりますが,神の観念以外のあらゆる真の観念の確実性certitudoは保証されるということです。つまり,神が人間を欺くことがあるかもしれないので人間はどんな観念についても確実性を有することは不可能であるという主旨の反駁は無効であるということになります。
 ところがスピノザはこの神の観念,神が人間を欺くことがない最も誠実であるという観念が神の真の観念であるということを説明するときに,神が欺瞞者であると考えることは,平面上に描かれた三角形の真の観念があるときに,その三角形の内角の和が二直角ではないと考えることが不可能であるのと同様に不可能であるという主旨の説明をしているのです。
 これは説明としては成立しているといえるでしょう。平面上に描かれた三角形の内角の和は二直角すなわち180度であるということは,三角形の本性から必然的に帰結する特質なので,もしある人間が平面上に描かれた三角形の真の観念を有した場合には,その人間はそのことを疑い得ないでしょう。これと同様に,神が人間を欺かないことも疑い得ないと説明されているからです。
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リコー杯女流王座戦&容認の可能性

2019-12-04 18:58:05 | 将棋
 11月27日に郡山で指された第9期女流王座戦五番勝負第三局。
 西山朋佳女王の先手で5筋位取り中飛車。後手の里見香奈女流王座が玉頭位取りに端角という趣向に出ましたが,これがうまくいかず,中盤で先手が有利になっていたのではないかと思います。
                                       
 後手が遊んでいた桂馬を使いにいった局面。ここから先手がうまい指し回しをみせました。
 まず☗2四歩☖同銀としておいて☗4五銀と桂取りに出ます。後手は☖7七歩成☗同銀を利かせておいて☖3三金と受けました。そこで☗3五歩と取り込み☖同銀に☗2五銀と打ちました。
                                       
 これが3四の桂馬と1四の香車を狙った一打。これが入ったことにより先手の優勢がはっきりとしました。後手は☖3三金と上がったところで☖2五銀と上がって受けておけばこれは防ぐことができました。もちろん☗3五歩と取り込まれて☖同角とは取りにくそうなので不利に変わりはありませんが,決め手を与えないためにはそちらの方がよかったかもしれません。
 西山女王が勝って2勝1敗。第四局は今日でした。

 解釈の変更をしたとはいえ,スピノザは,人間の精神mens humanaのうちに神Deusの真の観念idea veraがあることによって,その他の真の観念の確実性certitudoも保証されるとしていますから,その部分でいえば,確実性と真の観念とを等置することは避けています。スピノザはこの緒論の中で,神の明瞭判然たる観念をもたない限り,いかなるものについても絶対的な確実性を人間が有することはできないということを容認するという意味のことをいい,このことが緒論の全体の軸となっているからです。ただし,自分が存在するということだけはそこから除外されます。これはこうした思考方法の原点が「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という点にあるからなのであって,ここでもスピノザはデカルトRené Descartesの思想的立場を保持している,これはスピノザ自身が保持しているという意味ではなく,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』という書物の枠内で保持しているといえるでしょう。
 だからといってデカルトが,スピノザが行ったような解釈の変更を容認するかどうかは分かりません。僕自身の見解opinioとしていえば,デカルトはそれを容認しない可能性の方が強いのではないかと思えます。ですがここで重要なのは,デカルトがそれを容認するのか否かということなのではありません。スピノザはデカルトがそれを容認すると確信していたからこの改変を行ったのだと想定することができますが,解釈の変更が行われているということは紛れもない事実なのですから,こうした記述の中においては,デカルト自身の見解から逸脱するようなスピノザ自身の見解というのが,より滲み出やすくなっているであろうということが,僕がこのことと関連していっておきたいことです。確かにスピノザはデカルトに代わって反駁に答えようとしているのです。デカルトの哲学から逸脱しないように努めているでしょう。ですが,解釈を変更したならば,デカルト自身がいっていることをそのまま適用して反駁に解答することは当然ながらできません。よってそこには,スピノザ自身の考え方がそれだけ反映されやすくなるのではないかと僕には思えるのです。
 それではここから具体的な個所を示していきます。それは緒論の中では終りの近くにあります。
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オランダ王国友好杯&解釈の変更

2019-12-03 18:58:33 | 競輪
 別府記念の決勝。並びは坂本‐大槻の北日本,松井‐岩本‐簗田の南関東,稲毛‐稲垣の近畿で木暮と浅井は単騎。
 誘導の後ろに松井,4番手に坂本,6番手に稲毛,8番手に木暮,最後尾に浅井という隊列で残り2周のホームへ。まず動いたのは坂本で,松井を叩き誘導が退避。このラインに乗った稲毛がコーナーで坂本を叩き,バックで先頭に。単騎のふたりもスイッチしたので3番手に木暮,4番手が浅井,5番手に坂本,7番手に引いた松井の一列棒状で打鐘。この隊列のまま最終周回のバックに。坂本が発進し,さらにその上から松井。木暮と浅井も動こうとしたので松井はかなり外を回る形でしたが,勢いが違いました。岩本はマークできましたが簗田は離れ,やや内から追い上げようとして直線の手前で浅井と接触し浅井は落車。稲毛の番手から出た稲垣が,直線入口付近ではまだ先頭でしたが,捲った勢いそのままに松井が外から豪快に差し切って優勝。マークの岩本が半車輪差まで詰め寄っての2着で南関東のワンツー。稲垣が1車身差で3着。
 優勝した神奈川の松井宏佑選手は4月に小倉でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は初制覇。競技に力を入れているため,前走の競輪祭がおよそ3ヶ月ぶりの出走。FⅠは昨年が2勝で今年も2勝していましたから,記念競輪制覇は間近で,力量と近況,この開催の気配などからここでは最有力候補とみていました。113期の新鋭ですが,27歳と年齢は必ずしも若いというわけではなく,早いうちにビッグの制覇が期待される選手です。展開面から稲垣の3着は十分に考えられるところで,高配当となったのは意外でした。

 具体的な部分を紹介する前に,スピノザはこの部分で,デカルトRené Descartes自身の反駁に対して解釈上の変更をしています。これが当該部分にも関係しますし,この考察とも関係するので,それを先に説明しておかなければなりません。
                                        
 デカルトは確実性certitudoが神Deusを認識するcognoscereことにあるとスピノザはいっていますが,それは神が存在することの認識cognitioを意味します。ただし,デカルトは物体的実体substantia corporeaを神とは別の実体として措定しますので,ここでいわれている神というのは思惟する神であると理解してください。デカルトがいっていることの主旨は,そのような思惟する神が存在することによって,人間の精神mens humanaが何らかの真の認識をした場合に,その真の観念idea veraの確実性が保証されるということです。ですから神の認識あるいは神の観念idea Deiが人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するといっても,それはその人間の精神が神の存在existentiaを認識することによって確実性が保証されるというよりは,その人間の精神とは別に存在する神が人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するということなのです。したがって確実性の保証に対して最も重要なのは,神が存在するということです。
 スピノザはこれを改変します。その理由は,デカルトのような説明の仕方だと,神が人間を欺くか否かという反駁に対して十分な解答を与えることができないとスピノザが考えたからです。よってその変更自体は,デカルトの哲学を反駁から守るためであったのは間違いありません。
 スピノザがしている変更というのは,人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するのは,その人間の精神のうちにある神の観念であるということです。いい換えれば精神の外部に神が存在するということ自体は確実性の保証には不要であって,ある人間の精神が神を真に認識しさえすれば,その人間の精神のうちにある真の観念の確実性は保証されるとしたのです。したがってこの変更に従うなら,確実性の保証に対して何が最も重要であるかといえば,神が存在するということではなく,人間が神を真に認識するということであることになります。
 スピノザはこういう変更をデカルトが受け入れると考えていたのだと思われます。
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キズナ&緒論

2019-12-02 19:11:38 | 名馬
 10月31日の北海道2歳優駿を勝ったキメラヴェリテの父はキズナです。
                                   
 父はディープインパクト。母はキャットクイル。15歳上の半姉にJRA賞で1998年の最優秀3歳牝馬,2000年の最優秀4歳以上牝馬のファレノプシス。11歳上の半兄に2002年にピーターパンステークスを勝ったサンデーブレイク
 2歳10月にデビュー。新馬,500万と連勝。暮れのラジオNIKKEI杯2歳ステークスは3着。
 3歳初戦の弥生賞は5着。続く毎日杯で重賞初制覇を達成すると京都新聞杯も連勝。その勢いでダービーも制覇しました。秋は渡仏。ニエル賞を制して挑んだ凱旋門賞は5着でした。JRA賞の最優秀3歳牡馬を受賞。
 4歳初戦の大阪杯で重賞5勝目。天皇賞(春)は4着でした。故障のため4歳はこの2戦のみ。
 5歳初戦の京都記念は3着。大阪杯は2着。天皇賞(春)で7着と崩れ,これで現役生活を終えました。
 ダービー馬ですが,同世代の中で最も能力が高かった馬だとは僕は考えていません。ただし,母系の優秀さは種牡馬としては大きな武器になる筈です。現2歳がデビュー世代。キメラヴェリテのほか,函館2歳ステークスを勝ったビアンフェもいて,種牡馬としての滑り出しは順調といえます。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部は,定義Definitioから始まるわけではありません。その前に緒論が付されています。基本的にこの部分は,デカルトRené Descartesが『方法序説Discours de la méthode』で示した方法と,その結論の説明です。すでにいったようにデカルトは,とりあえずはすべての事柄を疑い,その中から疑い得ないことを発見しました。それが,疑っている自分自身が存在していることは疑い得ないということです。デカルトはこれを確実な事柄として思考をはじめ,最終的には神Deusの存在existentiaを確実性certitudoの根拠としたのでした。
 この説明だけで緒論は十分なのですが,スピノザは最後に,これに対する反駁を想定し,それに解答を与えています。反駁というのは,神が存在するということはそれ自体で知られ得ないことなので,人間はどんな事柄にも確実であることはできないのではないかということです。これに対してスピノザは,まずデカルトが『哲学原理Principia philosophiae』などで示している事柄で解答するのですが,それとは別に自分自身の解答を与えています。これはスピノザが,デカルトの解答には不備があると考えているからです。とくにそれは,神が人間を欺くことがあるか否かという点に関連しています。
 もちろん『デカルトの哲学原理』はスピノザによるデカルトの哲学の解説書です。ですから緒論のこの部分も,スピノザがデカルトに代わって解答を与えているということになり,いくらスピノザ自身が答えているからといっても,それがスピノザの考え方であるということはできません。実際にこの部分の文章の全体は,デカルトの考え方を覆さないように読解することも可能になっていると僕は判断します。しかし,部分的に読めば,それはデカルトの考え方というよりはスピノザの考え方に近いのではないかと思える部分が,二箇所ほど含まれているのです。文書全体の脈絡からは,その部分もデカルト哲学に合致させるように読解することが不可能ではないのですが,反駁に対する解答の仕方としていうなら,それはスピノザだったからこのような解答ができたのであって,デカルトであればそのようには答えることはできなかったのではないかとも思えるのです。
 これからそのふたつの部分を示します。
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