昨晩の第65回クイーン賞。
クレイジーアクセルがハナに立つとほかはすぐに控えました。2番手にラインカリーナ。3番手はミッシングリンクとプリンシアコメータ。5番手がナムラメルシーとトーセンガーネット。7番手のオルキスリアンまでは一団。4馬身差でナラとアルティマウェポン。アンデスクイーンが直後に続いてこの3頭も一団。4馬身差でスターレーン。さらに4馬身差の最後尾にナムラアヴィという隊列。最初の800mは49秒0のハイペース。
向正面半ばでプリンシアコメータがラインカリーナの外に並び掛けていき,逃げたクレイジーアクセルとの3頭は雁行に。2馬身ほど離れてミッシングリンクが追い掛けていく形に。前の雁行は3コーナーから4コーナーにかけて続き,真中のラインカリーナが最初に脱落。優勝争いは2頭になりましたが,逃げたクレイジーアクセルがプリンシアコメータに抜かれることはなく,最後は再び突き放す形で逃げ切って優勝。2馬身半差の2着にプリンシアコメータ。追ってきたミッシングリンクに迫られるとまた伸び返したラインカリーナが半馬身差で3着。ミッシングリンクはクビ差で4着。後方から大外を差してきたアンデスクイーンはクビ差の5着まで。
優勝したクレイジーアクセルは水沢に遠征した8月のビューチフルドリーマーカップ以来の勝利。重賞は初制覇。このレースは斤量の差が大きくなるのですが,背負っている馬が勝つというのが過去の傾向だったので,52キロのこの馬は入着はあっても勝つまでは難しいのではないかと思っていました。ただ,過去の戦績からはこの斤量なら勝てておかしくなかったのも事実で,今年は斤量差が確かに結果に反映したといえそうです。逃げればそれなりに粘れる馬ですので,また斤量が重くなっても,スムーズに逃げられれば重賞で通用するとみておいた方がいいのではないでしょうか。母の父はサクラバクシンオー。祖母の父はスペシャルウィーク。4代母がステラマドリッドで3代母のふたつ下の半妹に2002年のJRA賞で最優秀3歳以上牝馬に選出されたダイヤモンドビコー。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は南部杯以来の重賞5勝目。クイーン賞は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は2015年のマーキュリーカップ以来の重賞2勝目。
第二部定理六は,各々の属性attributumの様態modusがどのような意味で神Deusを原因causaとするのかを示します。そこでいわれているように,各々の様態はそれが様態となっている属性の下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。よって人間の身体humanum corpusおよび本性essentiaは,延長の属性Extensionis attributumの下では神を原因とするのですが,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。同様に人間の精神mens humanaおよびその本性は,思惟の属性Cogitationis attributumの下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下で神を原因とすることはありません。よって人間の身体およびその本性も,人間の精神およびその本性も,神を原因とはするのですが,それは異なった属性の下で神を原因とするのです。スピノザの哲学で人間の本性の創造者すなわち起成原因causa efficiensは,人間の本性natura humanaをどのように考えたとしても神であるという結論には,このような原則があるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
この原則を踏まえたなら,このことをデカルトRené Descartesの哲学の説明のためにそのまま利用することができないということは明白です。なぜなら,デカルトは物体的実体substantia corporeaというのを神とは異なった実体として規定しているのですから,もし人間の本性というのが,人間の精神ということを意味するならその創造者すなわち起成原因は神であることになるでしょうが,もし人間の身体あるいはその本性という意味であるなら,またはそのような意味も含むということであるなら,神ではない物体的実体がその創造者つまり起成原因である可能性が残るからです。なので『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』において人間の本性の創造者といわれるのであれば,この人間の本性というのが何を意味しているのかということは,別の仕方で考えなければなりません。
まず,ここでの論点となっているのは,そういう人間の本性の創造者が人間を欺くことがあるか否か,また人間を欺くことがあるか否かを当の人間が確実に知ることができるのかということでした。したがって,仮にその創造者が人間を欺くと仮定するなら,人間は欺かれる,必ず欺かれるかそうでなくとも欺かれる場合があることになります。このとき欺かれるのは人間の身体なのか精神なのかをまず考えていきましょう。
クレイジーアクセルがハナに立つとほかはすぐに控えました。2番手にラインカリーナ。3番手はミッシングリンクとプリンシアコメータ。5番手がナムラメルシーとトーセンガーネット。7番手のオルキスリアンまでは一団。4馬身差でナラとアルティマウェポン。アンデスクイーンが直後に続いてこの3頭も一団。4馬身差でスターレーン。さらに4馬身差の最後尾にナムラアヴィという隊列。最初の800mは49秒0のハイペース。
向正面半ばでプリンシアコメータがラインカリーナの外に並び掛けていき,逃げたクレイジーアクセルとの3頭は雁行に。2馬身ほど離れてミッシングリンクが追い掛けていく形に。前の雁行は3コーナーから4コーナーにかけて続き,真中のラインカリーナが最初に脱落。優勝争いは2頭になりましたが,逃げたクレイジーアクセルがプリンシアコメータに抜かれることはなく,最後は再び突き放す形で逃げ切って優勝。2馬身半差の2着にプリンシアコメータ。追ってきたミッシングリンクに迫られるとまた伸び返したラインカリーナが半馬身差で3着。ミッシングリンクはクビ差で4着。後方から大外を差してきたアンデスクイーンはクビ差の5着まで。
優勝したクレイジーアクセルは水沢に遠征した8月のビューチフルドリーマーカップ以来の勝利。重賞は初制覇。このレースは斤量の差が大きくなるのですが,背負っている馬が勝つというのが過去の傾向だったので,52キロのこの馬は入着はあっても勝つまでは難しいのではないかと思っていました。ただ,過去の戦績からはこの斤量なら勝てておかしくなかったのも事実で,今年は斤量差が確かに結果に反映したといえそうです。逃げればそれなりに粘れる馬ですので,また斤量が重くなっても,スムーズに逃げられれば重賞で通用するとみておいた方がいいのではないでしょうか。母の父はサクラバクシンオー。祖母の父はスペシャルウィーク。4代母がステラマドリッドで3代母のふたつ下の半妹に2002年のJRA賞で最優秀3歳以上牝馬に選出されたダイヤモンドビコー。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は南部杯以来の重賞5勝目。クイーン賞は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は2015年のマーキュリーカップ以来の重賞2勝目。
第二部定理六は,各々の属性attributumの様態modusがどのような意味で神Deusを原因causaとするのかを示します。そこでいわれているように,各々の様態はそれが様態となっている属性の下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。よって人間の身体humanum corpusおよび本性essentiaは,延長の属性Extensionis attributumの下では神を原因とするのですが,それ以外の属性の下では神を原因とはしません。同様に人間の精神mens humanaおよびその本性は,思惟の属性Cogitationis attributumの下でのみ神を原因とするのであって,それ以外の属性の下で神を原因とすることはありません。よって人間の身体およびその本性も,人間の精神およびその本性も,神を原因とはするのですが,それは異なった属性の下で神を原因とするのです。スピノザの哲学で人間の本性の創造者すなわち起成原因causa efficiensは,人間の本性natura humanaをどのように考えたとしても神であるという結論には,このような原則があるのです。
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この原則を踏まえたなら,このことをデカルトRené Descartesの哲学の説明のためにそのまま利用することができないということは明白です。なぜなら,デカルトは物体的実体substantia corporeaというのを神とは異なった実体として規定しているのですから,もし人間の本性というのが,人間の精神ということを意味するならその創造者すなわち起成原因は神であることになるでしょうが,もし人間の身体あるいはその本性という意味であるなら,またはそのような意味も含むということであるなら,神ではない物体的実体がその創造者つまり起成原因である可能性が残るからです。なので『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』において人間の本性の創造者といわれるのであれば,この人間の本性というのが何を意味しているのかということは,別の仕方で考えなければなりません。
まず,ここでの論点となっているのは,そういう人間の本性の創造者が人間を欺くことがあるか否か,また人間を欺くことがあるか否かを当の人間が確実に知ることができるのかということでした。したがって,仮にその創造者が人間を欺くと仮定するなら,人間は欺かれる,必ず欺かれるかそうでなくとも欺かれる場合があることになります。このとき欺かれるのは人間の身体なのか精神なのかをまず考えていきましょう。