スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オランダ王国友好杯&解釈の変更

2019-12-03 18:58:33 | 競輪
 別府記念の決勝。並びは坂本‐大槻の北日本,松井‐岩本‐簗田の南関東,稲毛‐稲垣の近畿で木暮と浅井は単騎。
 誘導の後ろに松井,4番手に坂本,6番手に稲毛,8番手に木暮,最後尾に浅井という隊列で残り2周のホームへ。まず動いたのは坂本で,松井を叩き誘導が退避。このラインに乗った稲毛がコーナーで坂本を叩き,バックで先頭に。単騎のふたりもスイッチしたので3番手に木暮,4番手が浅井,5番手に坂本,7番手に引いた松井の一列棒状で打鐘。この隊列のまま最終周回のバックに。坂本が発進し,さらにその上から松井。木暮と浅井も動こうとしたので松井はかなり外を回る形でしたが,勢いが違いました。岩本はマークできましたが簗田は離れ,やや内から追い上げようとして直線の手前で浅井と接触し浅井は落車。稲毛の番手から出た稲垣が,直線入口付近ではまだ先頭でしたが,捲った勢いそのままに松井が外から豪快に差し切って優勝。マークの岩本が半車輪差まで詰め寄っての2着で南関東のワンツー。稲垣が1車身差で3着。
 優勝した神奈川の松井宏佑選手は4月に小倉でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は初制覇。競技に力を入れているため,前走の競輪祭がおよそ3ヶ月ぶりの出走。FⅠは昨年が2勝で今年も2勝していましたから,記念競輪制覇は間近で,力量と近況,この開催の気配などからここでは最有力候補とみていました。113期の新鋭ですが,27歳と年齢は必ずしも若いというわけではなく,早いうちにビッグの制覇が期待される選手です。展開面から稲垣の3着は十分に考えられるところで,高配当となったのは意外でした。

 具体的な部分を紹介する前に,スピノザはこの部分で,デカルトRené Descartes自身の反駁に対して解釈上の変更をしています。これが当該部分にも関係しますし,この考察とも関係するので,それを先に説明しておかなければなりません。
                                        
 デカルトは確実性certitudoが神Deusを認識するcognoscereことにあるとスピノザはいっていますが,それは神が存在することの認識cognitioを意味します。ただし,デカルトは物体的実体substantia corporeaを神とは別の実体として措定しますので,ここでいわれている神というのは思惟する神であると理解してください。デカルトがいっていることの主旨は,そのような思惟する神が存在することによって,人間の精神mens humanaが何らかの真の認識をした場合に,その真の観念idea veraの確実性が保証されるということです。ですから神の認識あるいは神の観念idea Deiが人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するといっても,それはその人間の精神が神の存在existentiaを認識することによって確実性が保証されるというよりは,その人間の精神とは別に存在する神が人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するということなのです。したがって確実性の保証に対して最も重要なのは,神が存在するということです。
 スピノザはこれを改変します。その理由は,デカルトのような説明の仕方だと,神が人間を欺くか否かという反駁に対して十分な解答を与えることができないとスピノザが考えたからです。よってその変更自体は,デカルトの哲学を反駁から守るためであったのは間違いありません。
 スピノザがしている変更というのは,人間の精神のうちにある真の観念の確実性を保証するのは,その人間の精神のうちにある神の観念であるということです。いい換えれば精神の外部に神が存在するということ自体は確実性の保証には不要であって,ある人間の精神が神を真に認識しさえすれば,その人間の精神のうちにある真の観念の確実性は保証されるとしたのです。したがってこの変更に従うなら,確実性の保証に対して何が最も重要であるかといえば,神が存在するということではなく,人間が神を真に認識するということであることになります。
 スピノザはこういう変更をデカルトが受け入れると考えていたのだと思われます。
コメント
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