このブログのスタイルの説明です。
レディースオープントーナメント決勝三番勝負第三局。
改めて振駒で先手になった里見香奈女流一級はいつものように中飛車。矢内理絵子女流名人は左美濃、先手も銀冠と持久戦になりました。
仕掛けの前で千日手も懸念されましたが先手から打開して開戦。71手目で角交換になった後、74手目に☖5九角と打って後手が優位に立ったようです。局後のインタビューによると里見一級もここで非勢と思ったようですが、決定的な悪手となったのが77手目の☗1五歩と端攻めに出た手。これを咎められ、結果的に端から逆襲される形となってしまい、著しく形勢を損ねました。ここからかなり先手は頑張ったのではないかと思うのですが、その部分での差が大きすぎ、逆転には至らず矢内名人の優勝となっています。
かなりの注目を集めた棋戦で、新しいヒロインの誕生を期待する雰囲気が大きかったのではないかと思うのですが、そういう中で第一人者としての貫禄を見せた矢内名人は立派であったと思います。里見一級としては大魚を逸したという感もありますが、ここまで進出してきたのがフロックでないということは明白で、すぐにまた大きなチャンスを得るのではないでしょうか。なお、里見一級は今日付けで初段に昇進ということです。
明日から宇都宮で東西王座戦。昨年までは東西別々でしたが、今年からは一括開催です。
これまでこのブログでは、『エチカ』の中のあるひとつの定義Definitioや公理Axioma、あるいは定理Propositioや系Corollarium、備考Scholiumを挙げて、それをテーマとして扱っていました。これは、あとで振り返るときに便利であるという意味があり、今回もそうすることにしたいのですが、ここで扱おうとしている責任論ということ自体については、スピノザは『エチカ』の中では何も言及していないのです。そこでこれについては僕が任意に設定するということにしますが、そういった部分としてはいくつか考えられるところでもあります。
ただ、今回は、単に『エチカ』において責任という概念notioはあり得るのか、またあり得るとすればそれはどういったものなのかということだけではなく、そもそも、なぜ『エチカ』においてそうしたことが問題として生じてくるのかということも合わせて考察していきたいと考えていますので、そのための取り掛かりになる個所という意味で、第一部定理三二をテーマとして設定することにします。
「意志は自由なる原因(causa libera)とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる」。
もちろんここでは責任論について考えていくわけですから、このテーマ設定自体は暫定的なものであるといえなくもないのですが、確かに『エチカ』においてこのことを考えていかなければならない発端となっているのはこの定理であるように思います。
レディースオープントーナメント決勝三番勝負第三局。
改めて振駒で先手になった里見香奈女流一級はいつものように中飛車。矢内理絵子女流名人は左美濃、先手も銀冠と持久戦になりました。
仕掛けの前で千日手も懸念されましたが先手から打開して開戦。71手目で角交換になった後、74手目に☖5九角と打って後手が優位に立ったようです。局後のインタビューによると里見一級もここで非勢と思ったようですが、決定的な悪手となったのが77手目の☗1五歩と端攻めに出た手。これを咎められ、結果的に端から逆襲される形となってしまい、著しく形勢を損ねました。ここからかなり先手は頑張ったのではないかと思うのですが、その部分での差が大きすぎ、逆転には至らず矢内名人の優勝となっています。
かなりの注目を集めた棋戦で、新しいヒロインの誕生を期待する雰囲気が大きかったのではないかと思うのですが、そういう中で第一人者としての貫禄を見せた矢内名人は立派であったと思います。里見一級としては大魚を逸したという感もありますが、ここまで進出してきたのがフロックでないということは明白で、すぐにまた大きなチャンスを得るのではないでしょうか。なお、里見一級は今日付けで初段に昇進ということです。
明日から宇都宮で東西王座戦。昨年までは東西別々でしたが、今年からは一括開催です。
これまでこのブログでは、『エチカ』の中のあるひとつの定義Definitioや公理Axioma、あるいは定理Propositioや系Corollarium、備考Scholiumを挙げて、それをテーマとして扱っていました。これは、あとで振り返るときに便利であるという意味があり、今回もそうすることにしたいのですが、ここで扱おうとしている責任論ということ自体については、スピノザは『エチカ』の中では何も言及していないのです。そこでこれについては僕が任意に設定するということにしますが、そういった部分としてはいくつか考えられるところでもあります。
ただ、今回は、単に『エチカ』において責任という概念notioはあり得るのか、またあり得るとすればそれはどういったものなのかということだけではなく、そもそも、なぜ『エチカ』においてそうしたことが問題として生じてくるのかということも合わせて考察していきたいと考えていますので、そのための取り掛かりになる個所という意味で、第一部定理三二をテーマとして設定することにします。
「意志は自由なる原因(causa libera)とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる」。
もちろんここでは責任論について考えていくわけですから、このテーマ設定自体は暫定的なものであるといえなくもないのですが、確かに『エチカ』においてこのことを考えていかなければならない発端となっているのはこの定理であるように思います。