スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港国際競走&著作の出版

2015-12-14 19:31:55 | 海外競馬
 昨日,香港のシャティン競馬場で行われた香港国際競走4レースのうち3レースにのべ10頭の日本馬が参戦しました。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。大外の馬が押して逃げ,ミッキーアイルは2番手から。ストレイトガールは後方3番手の外,サクラゴスペルは最後尾を追走。スローペースだったのではないかと思えます。ミッキーアイルは逃げ馬の外に並び掛けるような形で直線に。しかしここから勝つことになる逃げ馬に離されるとギブアップ。後続の馬たちに飲み込まれて7着。ストレイトガールは直線は大外の進路になり,目立った伸びはなく9着。サクラゴスペルは内に進路を取りましたがこちらもレースに参加したという感じはなく12着。ストレイトガールあたりはもう少し走れてよかったような気もしますが,全般的にいってこのレースに参加した日本馬は能力が足りなかったという印象になりました。
 香港マイルGⅠ芝1600m。モーリスは概ね5番手付近。3頭ほど置いてフィエロ,さらに1頭を挟んでダノンプラチナという位置取り。ミドルペースでした。このレースは地元の人気馬がモーリスをマークするような展開。その馬が大外に出て直線ではモーリスより前に出たと思うのですが,そこからモーリスが差し返すと,内で粘った2着馬も交わして優勝。馬場の内から中よりは密集したため行き場がない場面もあり,ダノンプラチナは7着。フィエロは9着。2頭とも進路があればもう少しやれたでしょうし,とくにダノンプラチナは明らかに脚を余した感じがします。対してモーリスは力を十全に発揮。マークしてきた馬を負かしていますから濃い内容だったといえます。レースぶりからするともう少し距離があってもよさそうに思えました。
 優勝したモーリスマイルチャンピオンシップに続き6連勝で大レースも3連勝。父はスクリーンヒーロー。祖母は1989年のクイーンステークス,1990年の金杯とアルゼンチン共和国杯,1991年のアメリカジョッキークラブカップを勝ったメジロモントレーデヴォーニアメジロボサツの分枝。騎乗したライアン・ムーア騎手はマイルチャンピオンシップ以来の日本馬での大レース制覇。管理する堀宣行調教師もマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇で海外GⅠは3月のジョージライダーステークス以来の2勝目。日本馬の海外大レース制覇もそれ以来で香港では一昨年の香港スプリント以来。香港マイルは2005年以来10年ぶり2勝目。
 香港カップGⅠ芝2000m。外枠でしたがエイシンヒカリがじわっとハナへ立つと2馬身ほどのリードの逃げ。9番手くらいでインのヌーヴォレコルトと外のステファノスが並び,2馬身差ほどでサトノアラジンが追走。向正面に出た後もエイシンヒカリはペースを落としませんでしたが,レース全体ではスローペースだったといえるでしょう。直線に入ったところでもエイシンヒカリは2馬身くらいのリード。見た目の手応えそのままにここから2番手以降を離しましたので,この時点で勝ったのではないかと思いました。最も迫ったのは最内を回ってきたヌーヴォレコルトでしたが,逃げ切ったエイシンヒカリの優勝でヌーヴォレコルトが2着と日本馬のワンツー。ヌーヴォレコルトはインを回った好騎乗と前が詰まらなかった分の2着。この馬に最も合ったレースができての結果ですが,どうしても勝ち運には恵まれないという感が残ります。10着のステファノスと11着のサトノアラジンは完敗ですが,とくにステファノスはもう少し走れておかしくないように思え,やや不可解です。
                                  
 優勝したエイシンヒカリは前々走の毎日王冠以来の勝利で大レース初制覇を海外で達成。この馬は昨秋にオープン特別を勝った時点でマックスの能力は非常に高いことが明らかになっていました。相手がどうこうよりも気分よく走れるかどうかが焦点。必要以上に抑えてペースを落とさなかったのがよかったと思います。先手を奪えるのは強みなので,安定性は欠くかもしれませんが,中距離では相当の期待をしてもよい馬でしょう。父はディープインパクト。祖母のはとこに2012年の兵庫ジュニアグランプリと2013年のシリウスステークスを勝っている現役のケイアイレオーネ。騎乗した武豊騎手JBCクラシック以来の大レース制覇。海外での重賞は一昨年のニエル賞以来。GⅠは2007年のドバイデューティフリー以来。香港では2001年の香港ヴァーズ以来で香港カップは初勝利。管理している坂口正則調教師は1990年のオークス以来25年ぶりの大レース2勝目。

 コレギアント派であったことから類推できるように,リューウェルツは自由思想に寛容でした。自身が自由思想家であったといっても間違いないと思います。ハルマンと会ったリューウェルツゾーンは父の仕事を継ぐ形で出版者になりました。つまりリューウェルツも出版者だったのです。そして自由思想家らしく,自由思想に関連する多くの著作を出版していました。ですからファン・デン・エンデンが書店経営者であったことを差し引いても,エンデンとリューウェルツには出会う契機があったと考えることができます。
 1661年にオルデンブルクレインスブルフのスピノザを訪ねたとき,オルデンブルクがスピノザを知る契機となった人物として『ある哲学者の人生』でピーテル・セラリウスのほかに実名があげられているのがふたりいて,そのうちのひとりがリューウェルツです。リューウェルツはアムステルダムの出版者でした。レインスブルフとアムステルダムは離れているので,その時期にはそうたびたびは会えなかったと推測できます。したがってスピノザがレインスブルフに移る以前,すなわち1660年よりは前に,スピノザとリューウェルツは親友といえる関係になっていたと考えてよいでしょう。
 『デカルトの哲学原理』は実名でリューウェルツを出版者として刊行されました。『神学・政治論』は匿名で出版元があたかもドイツであるかのように装って刊行されました。遺稿集はイニシャルで,出版元は表記されずに刊行されました。それぞれ形式は異なりますが,いずれも出版者はリューウェルツです。
 自身が自由思想家だったと推定できますから,スピノザの著作の出版に協力することは不思議ではありません。とはいえ『デカルトの哲学原理』はともかく,ほかのふたつは出版すれば罪に問われるおそれがあったといえます。なので出版をしり込みしたとしてもリューウェルツを責めることはできないでしょう。ですがその危険を顧みずにリューウェルツはスピノザの著作を世に出したことになります。リューウェルツゾーンよりリューウェルツの方がスピノザの人生にとって重要人物であったのは,ここから理解できると思います。
コメント
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