スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

エリザベス女王杯&弁明②

2019-11-10 18:47:14 | 中央競馬
 第44回エリザベス女王杯
 ゲートの中で立ち上がっていたゴージャスランチは発馬のタイミングも合わず2馬身の不利。先頭に立ったのはクロコスミアで,向正面にかけて3馬身くらいまで徐々にリードを広げました。2番手にラヴズオンリーユー。2馬身差でフロンテアクイーン,サラキア,センテュリオの3頭。2馬身差でクロノジェネシスとスカーレットカラー。1馬身差でラッキーライラックとアルメリアブルーム。2馬身差でポンデザールとサトノガーネット。2馬身差でレッドランディーニ。1馬身差でウラヌスチャーム。1馬身差でシャドウディーヴァとレイホーロマンス。1馬身差でブライトムーンとゴージャスランチ。2馬身差の最後尾にミスマンマミーア。最初の1000mは62秒8の超スローペースでしたが縦長の隊列となりました。
 クロコスミアは向正面に入ってからもリードを少しずつ広げていき,3コーナーでは6馬身ほど。2番手と3番手も2馬身差のままで直線に。2番手のラヴズオンリーユーがここから追ってきましたが,内へ外へとふらふらしていました。その間に最内を突いたラッキーライラック,外からはセンテュリオとスカーレットカラーが追ってくる形。内のラッキーライラックの伸び脚が優り,最後は内からクロコスミアを差して優勝。逃げ粘ったクロコスミアが1馬身4分の1差で2着。最後は真直ぐに伸びたラヴズオンリーユーがクビ差まで迫って3着。
 優勝したラッキーライラックは昨年3月のチューリップ賞以来の勝利。大レースは一昨年暮れの阪神ジュベナイルフィリーズ以来の2勝目。デビューからチューリップ賞まで4連勝し,その後は7連敗。あたかも早熟だったかのようですが,負けてはいても常に僅差でしたから,きちんと成長もしていて能力が衰えていたわけではありませんでした。いい枠を引いて内を回り,最後も内から差してくることができたので,今日は優勝まで手が届いたというところでしょう。これからも大きく崩れるということは考えにくい馬だと思います。父はオルフェーヴル。3代母がステラマドリッド。祖母の半妹にJRA賞で2002年の最優秀4歳以上牝馬のダイヤモンドビコー。母の父はプリンセスオリビアのアメリカでの産駒です。
 騎乗したフランスのクリストフ・スミヨン騎手は2014年のジャパンカップ以来となる日本馬に騎乗しての,また日本での大レース3勝目。エリザベス女王杯は初勝利。管理している松永幹夫調教師は一昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース5勝目。調教師としてはエリザベス女王杯初勝利。

 スピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の七八節でいおうとしていることの主旨が,人間があることについて疑わないということと,人間がその事柄について確実であるということとは異なるということであるとすれば,これは『エチカ』の第二部定理四九備考でいっていることと一致します。したがって,論旨の主要部分だけを抽出して解釈するならば,『知性改善論』の七八節でいわれていることは,スピノザの哲学の全体の中で,ほかの部分と矛盾を来さなければならないわけではありません。ただスピノザがそこで,単にある人間の精神mens humanaのうちにひとつの観念ideaしかないなら,たとえそれが誤った観念idea falsaであるとしても,その人間はそれについて疑惑dubitatioを有することはないであろうといわず,それが真の観念idea veraであったとしてもそれを確実であるとは認識しないであろうともいってしまっているので,矛盾が生じてしまっているだけなのです。ですからまず,この部分の文章の主旨の全体の中で,主旨とは異なる部分に目を向けるからこそ,矛盾が発生しているといわなければならなくなっているという点に注意してください。いい換えればこの部分をスピノザが撤回するとしても,七八節の全体の主旨にとっては何の影響もないのです。
                                        
 さらにもう一点,スピノザには弁明の余地が残されています。それは,もしも人間の精神のうちにひとつの観念しかなかったらという仮定の部分に存在します。この仮定は非現実的な仮定なのです。
 これが非現実的であるということは,単に僕たちが自分の精神について反省的にみただけで明白であるといっていいでしょう。さらにスピノザ自身が第二部定理一五でいっていることから,論理的にも明白であることになります。もちろんスピノザは『知性改善論』の中ではこのことを明示的には語っていないかもしれません。ですがたとえそのように語られていなくても,現実的に存在する人間の精神がきわめて多くの観念によって組織されているということは前提として,もしもひとつの観念しか存在しないのであれば,という仮定を立てていることは間違いないといわなければならないでしょう。よってひとつの観念しかもたない人間は現実的には存在しません。
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