スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ひろしまピースカップ&確実性の条件

2019-12-16 19:09:29 | 競輪
 昨日の広島記念の決勝。並びは菅田‐守沢の北日本,根田‐岡村‐福田の南関東,原田‐橋本‐池田の四国中国で坂口は単騎。
 菅田がスタートを取って前受け。3番手に原田,6番手に根田,最後尾に坂口で周回。残り2周のホームから根田が上昇。坂口も続きました。バックで根田が菅田を叩いて前に。5番手に菅田,7番手に原田となって打鐘。4番手と5番手,6番手と7番手の車間が開いた形での一列棒状に。原田は最終周回のホームの出口から発進。徐々に前との差を詰めていきましたが,バックの出口から4番手の坂口が発進。この影響で原田は外に浮いてしまい圏外。直線は根田の番手から出た岡村が差して優勝。坂口の後から大外を捲り追い込んできた菅田が4分の3車身差で2着。岡村マークの福田が4分の1車輪差の3着で坂口は4分の1車輪差で4着。
 優勝した静岡の岡村潤選手は2016年6月の別府記念以来の記念競輪2勝目。このレースは脚力では原田が上なので,優勝候補の筆頭とみていました。後方からの捲りになったのは仕方がありませんが,ちょっと前との車間が開きすぎてしまったように思います。ただこのあたりは,根田に叩かれた後の菅田の対応の仕方が巧みだったからだともいえます。これで捲り切っていれば,菅田にとっては会心のレースだったことでしょう。根田の先行意欲と菅田の技術が原田には不利に働き,根田の番手の岡村に有利に働いたという結果でした。

 最も誠実なものを認識したならそれは神Deusであると定義づけたのですから,もしも神が認識されるなら,それは最も誠実なものすなわち人間を欺かないものと認識されます。このことが緒論の中で成立しているわけです。よって,人間の本性natura humanaの創造者が神のほかに存在し,かつそれが人間を欺くのであったとしても,神が人間を欺かないということについては確実である,他面からいえばそのことについては何ものにも欺かれていないということについて確実であるわけです。デカルトRené Descartesは神の存在existentiaが確実性certitudoの保証になるといったのに対し,スピノザはそれを人間の精神mens humanaのうちに神の真の観念idea veraがあることが確実性の保証になるといい換えたのですが,このいい換えた部分がここでは成立していますから,デカルトが実際にそれに同意するのかどうかは別として,スピノザの中ではデカルトに対する擁護にもなっています。
                                        
 僕の考えでは,このことは3つのレベルからいうことができます。第一に,ここで示したように,もし人間の本性の創造者が神以外に存在し,それが人間を欺くことがあったのだとしても,人間は神の観念idea Deiには確実であるということです。第二に,もし人間の本性の創造者が神以外に存在し,それが人間を欺くのか欺かないのかということは定かではないにしても,人間は神の観念については確実であることができるということです。第三に,人間の本性の創造者が神の外部にいるかどうかということを知らないとしても,人間は神の観念ついて確実であることができるということです。そしてこの第三のレベルは,たとえ人間の本性の創造者なるものが神の外に存在しないとしても,人間は神の観念について確実であることができるということを意味し得ます。すなわち,神の外部に人間の本性の創造者が存在するかしないかということは,人間が神の観念について確実性を有するための条件とは無関係であることになります。ですから当然ながらそういうものが神の外部に存在すると仮定した場合にも,それが人間を欺くか欺かないかということも,人間が神の観念について確実性を有する条件とは無関係であることになります。
 スピノザは第二のレベルで答えます。
コメント
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