スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デイリー盃大井記念&必要な想定

2019-05-23 19:04:26 | 地方競馬
 昨晩の第64回大井記念。的場文男騎手が21日の6レースで落馬した際に顔面を強打し負傷したためシュテルングランツは川島正太郎騎手に変更。
 15番枠から真直ぐに出たシュテルングランツが,ほかの馬より前に出てから内に寄せていっての逃げ。2番手にディアデルレイ,3番手にジャーニーマンと追い上げていったセンチュリオンが並び,この4頭が先行集団を形成。4馬身差でタービランスとサウンドトゥルー。7番手にモズライジン。8番手はモジアナフレイバーとリッカルドで5頭が好位集団。2馬身差でウマノジョーとチャイヤプーン。1馬身差でヒガシウィルウィンとサブノクロヒョウ。1馬身差でワールドレーヴとヤマノファイトでこの6頭が中団から後方集団。ワンフォーオールは大きく離されました。前半の1000mは61秒4のハイペース。
 3コーナーの手前でセンチュリオンが単独の2番手。タービランスが3番手に。外を回ってシュテルングランツとセンチュリオンを追ったタービランスは押しながら。内を回って追ってきたモジアナフレイバーの方は楽な手応え。直線に入るところでセンチュリオンはやや外に膨れる形。タービランスが追いきれなかったのでモジアナフレイバーはセンチュリオンの外に出し,ここから2頭で競り合いながらシュテルングランツを抜き去って優勝争い。残り100m付近でモジアナフレイバーが前に出るとあとは差を広げる一方となって快勝。センチュリオンが3馬身半差で2着。粘るシュテルングランツは何とか差したタービランスが6馬身差で3着。
 優勝したモジアナフレイバー勝島王冠以来の南関東重賞2勝目。このレースは能力の基準はタービランスで,それを負かすことができる馬がいるかどうかが焦点。可能性が高かったのは,古馬相手にいきなり勝島王冠を勝ったモジアナフレイバーと,JRAからの転入初戦のオープンを3馬身差で勝っていたセンチュリオンで,結果的にその2頭がタービランスに対して大きな差をつけることに。タービランスはこれまでの走破時計に近いタイムで走っていますので,この2頭の能力の方が上だったと判断できる結果だと思います。センチュリオンはレースの序盤でロスがありましたが,それでも3馬身半というのは大きな差ですから,センチュリオンよりもモジアナフレイバーの方が強いとみてもいいのではないでしょうか。大レースは厳しいでしょうが,重賞くらいなら勝負になる力をもった馬だと思います。3代母はパテントリークリア。母の6つ下の半弟に2017年に高松宮記念,2018年に函館スプリントステークスを勝っている現役のセイウンコウセイ。Mogianaはブラジルの地名。
 騎乗した浦和の繁田健一騎手は勝島王冠以来の南関東重賞8勝目。大井記念は初勝利。管理している大井の福永敏調教師は勝島王冠以来の南関東重賞2勝目。

 集合論を数学として認めるか認めないかということと関係なく,公理論者といわれる一群の数学者が存在することは間違いないようです。このとき,公理論者のすべてが,スピノザがいっているような実体substantiaとしての量という概念conceptusを必要とするかどうかも僕には分かりません。そもそも僕は,集合論と公理論が方法論的観点から対立しなければならない理由がないように思っているわけですから,実体としての量を否定する公理系を記述することは可能であると思っているのです。ですから,分析的方法に固執する集合論者というのが存在するなら,公理論者は当然ながら幾何学的方法すなわち綜合的方法を重視することになるので,その観点からその集合論者を否定するでしょう。けれどそのゆえに集合論という数学が形而上学的に誤っていると主張しなければならないというようには僕には思えません。
                                   
 一方,概念として無限infinitumとしての量というのが数学には必須であると解する数学者がいれば,この数学者は公理論者であるかないかと無関係に,集合論を否定することになるでしょう。と同時に,そういう数学者が,その数学を支える形而上学的背景に自覚的であったとしたら,スピノザの哲学は自身の数学と親和性が高いということを直ちに発見する筈です。ここから分かるように,僕は計測可能でないような無限という量の是非に対する数学者の態度が,スピノザの哲学に対する是非と直結するのだろうと推定します。これは逆の面からいえば,分割が不可能で計測が不可能である無限という概念を取り入れている数学というものをスピノザは肯定し,それを否定するような数学については否定するだろうということです。そのとき,スピノザは数学ということで,初めからそういう無限を概念として導入している学問についてのみ語り,そういう数学についてだけ,それは真理veritasを明らかにしまた真理を獲得する方法を明らかにすることに貢献していると考えているかもしれないのです。つまりスピノザの数学に対する評価というのは,そのような数学に対する評価に限定されているのであり,そうでない数学は最初から数学から排除されている可能性を想定しておく必要があります。
コメント
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