スピノザの聖書解釈の方法の最大の特徴は,聖書が真理veritasに貢献するものであるということを否定したという点にあるといえます。人間に真理を教えるのは哲学であって,聖書ないしは神学が何かを人間に教えるとすれば,それは服従するということであるというのが,スピノザの考え方で,これによって哲学と神学は棲み分けが可能になるのです。形而上学的にいい換えれば,哲学と神学が実在的に区別されるようになるのです。
だからといって,スピノザは神学が,人間に対してありとあらゆることに服従obedientiaを強いるものであると主張しているわけではありません。たとえば人間的自由に反することに服従することは不可能なことであり,だからそれに服従を強いることも不可能なことになります。スピノザは聖書そのものについてはむしろ人間にとって有用であると理解していました。いい換えればそれは,聖書のうちには人間に対して無理な服従を強いるような教えは存在しないと考えていたという意味です。
では聖書は何に対して服従するべきであると教えているとスピノザは考えていたのでしょうか。それはふたつしかありません。ひとつは神Deusに対して服従することであり,もうひとつは隣人に対して服従することです。他面からいえば聖書がその全体を通して教えていることは,その物語の長さにも関わらずたったふたつしかないのであって,それは神を愛することと隣人を愛することであるということです。
服従を教えるということは受動passioを教えるということと同義です。ですが神を愛することはたとえば第五部定理三六により,能動的な人間の態度に一致します。隣人を愛することはたとえば第四部定理三五によってやはり能動的な人間の態度に一致します。つまり聖書は,哲学によって真理を知った人間がとる行動を,真理を経ず服従によって教えるのです。ここに行動すなわち敬虔pietasという面での哲学と神学の一致があります。だからスピノザは聖書を有用なものと評価するのです。
第五部定理二三のスピノザによる論証Demonstratioを詳しく解明するためには,直前の第五部定理二二が必須になります。なので準備としてまずこちらの定理Propositioを考察しておきます。
「しかし神の中にはこのまたかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」。
定理の冒頭で「しかし」といわれているのは,それまでの論証の流れからの接頭語です。さすがにその流れをここですべて示すことは困難なので,重要な点だけ示しておきましょう。
この定理では人間身体humanum corpusの本質essentiaといわれています。僕は本質と本性naturaを同じ意味に解しますので,ここまでの語用に倣い,以下では人間の身体の本性と表記します。このとき,ここでいわれている人間の身体の本性というのは,現実的に存在する人間の身体の本性のことなのです。いい換えれば,個物の存在は神Deusの属性attributumに包含されて存在する場合と,現実的に存在する場合とがあるのですが,ここでいわれているのは後者の場合です。すなわちこの定理がいっているのは,現実的に存在する人間の身体の本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるということです。そしてそれはこの人間またはかの人間の身体の本性の観念といわれているのですから,神のうちに存在するといわれている観念というのは,一般的な意味において現実的に存在する人間の身体の本性の観念なのではありません。むしろ現実的に存在する個々の人間,たとえば僕の,あるいはスピノザの身体の本性の観念であるということです。つまり現実的にあまたの人間が存在していますから,それだけ多くの人間の身体の本性もまた現実的に存在するといわなければなりませんが,そうした人間のだれかを無作為に抽出したとしても,その人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が神のうちにはあるということをスピノザはこの定理において論証しようとしているのだと解するのが妥当だということになります。
このことから,冒頭で「しかし」といわれなければならなかった理由は何となく分かるのではないでしょうか。現実的に存在する人間の身体の本性は,その人間が存在することを停止すれば消滅する筈だからです。
だからといって,スピノザは神学が,人間に対してありとあらゆることに服従obedientiaを強いるものであると主張しているわけではありません。たとえば人間的自由に反することに服従することは不可能なことであり,だからそれに服従を強いることも不可能なことになります。スピノザは聖書そのものについてはむしろ人間にとって有用であると理解していました。いい換えればそれは,聖書のうちには人間に対して無理な服従を強いるような教えは存在しないと考えていたという意味です。
では聖書は何に対して服従するべきであると教えているとスピノザは考えていたのでしょうか。それはふたつしかありません。ひとつは神Deusに対して服従することであり,もうひとつは隣人に対して服従することです。他面からいえば聖書がその全体を通して教えていることは,その物語の長さにも関わらずたったふたつしかないのであって,それは神を愛することと隣人を愛することであるということです。
服従を教えるということは受動passioを教えるということと同義です。ですが神を愛することはたとえば第五部定理三六により,能動的な人間の態度に一致します。隣人を愛することはたとえば第四部定理三五によってやはり能動的な人間の態度に一致します。つまり聖書は,哲学によって真理を知った人間がとる行動を,真理を経ず服従によって教えるのです。ここに行動すなわち敬虔pietasという面での哲学と神学の一致があります。だからスピノザは聖書を有用なものと評価するのです。
第五部定理二三のスピノザによる論証Demonstratioを詳しく解明するためには,直前の第五部定理二二が必須になります。なので準備としてまずこちらの定理Propositioを考察しておきます。
「しかし神の中にはこのまたかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」。
定理の冒頭で「しかし」といわれているのは,それまでの論証の流れからの接頭語です。さすがにその流れをここですべて示すことは困難なので,重要な点だけ示しておきましょう。
この定理では人間身体humanum corpusの本質essentiaといわれています。僕は本質と本性naturaを同じ意味に解しますので,ここまでの語用に倣い,以下では人間の身体の本性と表記します。このとき,ここでいわれている人間の身体の本性というのは,現実的に存在する人間の身体の本性のことなのです。いい換えれば,個物の存在は神Deusの属性attributumに包含されて存在する場合と,現実的に存在する場合とがあるのですが,ここでいわれているのは後者の場合です。すなわちこの定理がいっているのは,現実的に存在する人間の身体の本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神の中にあるということです。そしてそれはこの人間またはかの人間の身体の本性の観念といわれているのですから,神のうちに存在するといわれている観念というのは,一般的な意味において現実的に存在する人間の身体の本性の観念なのではありません。むしろ現実的に存在する個々の人間,たとえば僕の,あるいはスピノザの身体の本性の観念であるということです。つまり現実的にあまたの人間が存在していますから,それだけ多くの人間の身体の本性もまた現実的に存在するといわなければなりませんが,そうした人間のだれかを無作為に抽出したとしても,その人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が神のうちにはあるということをスピノザはこの定理において論証しようとしているのだと解するのが妥当だということになります。
このことから,冒頭で「しかし」といわれなければならなかった理由は何となく分かるのではないでしょうか。現実的に存在する人間の身体の本性は,その人間が存在することを停止すれば消滅する筈だからです。