スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイルチャンピオンシップ南部杯&含まれる本性

2019-10-14 19:10:19 | 地方競馬
 第32回南部杯
 ロンドンタウンとノボバカラの2頭で後ろを離していく形に。3馬身差でアルクトス,モジアナフレイバー,パンプキンズの3頭。その直後がサンライズノヴァとゴールドドリームの2頭でこの5頭は一団。3馬身差でオールブラッシュ。さらにミツバ。2馬身差でロジストームとメイショウオセアン。2馬身差でナラ。2馬身差でラモントルドール。4馬身差でイッセイイチダイとレプランシュとソーディスイズラヴ。力量差がはっきりしていたこともあり縦長の隊列に。前半の800mは45秒7のハイペース。
 3コーナーを回るとノボバカラは苦しくなり始め,内からアルクトス,外からサンライズノヴァとモジアナフレイバーが追い上げ,ゴールドドリームはこれらの後ろ。直線は逃げたロンドンタウンの内からアルクトス,外からサンライズノヴァ。大外に回ったモジアナフレイバーの内に進路を選択したゴールドドリームの優勝争い。ロンドンタウンは脱落。わりと楽に抜け出したサンライズノヴァが優勝。最内のアルクトスが1馬身半差で2着。外のモジアナフレイバーを差す形でゴールドドリームが1馬身半差の3着。モジアナフレイバーがクビ差の4着でロンドンタウンは1馬身半差で5着。
 優勝したサンライズノヴァは昨年の武蔵野ステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。ここはゴールドドリームの力が上でしたが,球節の炎症後の一戦でしたので,崩れるケースもあり得るとみていました。その場合はアルクトスとサンライズノヴァが候補で,僕は能力そのものはサンライズノヴァの方が上とみていました。武蔵野ステークスを勝った後,成績は残せていなかったのですが,おそらく体調によるものだったのだろうと思います。復調してくればこれくらい走って当然の馬ですので,今後も注目ではないでしょうか。父はゴールドアリュール。9代母がダイシング。祖母は1989年にフラワーカップを勝ったリアルサファイヤ。母のふたつ下の半弟に2005年に武蔵野ステークス,2007年にフェブラリーステークスを勝ったサンライズバッカス。Novaは新星。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手は一昨年の京阪杯以来となる重賞4勝目。デビューから18年半で大レース初勝利。管理している音無秀孝調教師はジャパンダートダービー以来の大レース13勝目。南部杯は初勝利。

 現実的に存在する物体corpusXの本性essentiaは,Xが現実的に存在することを鼎立する本性です。よってそれがなければXは現実的に存在することができません。このことは第二部定義二の意味から明らかです。そして人間の身体humanum corpusは物体のひとつですから,ある人間の身体が現実的に存在するのであれば,その身体の現実的本性actualis essentiaというものがあります。僕たちにとってそれ,すなわち自分の身体の現実的本性は,あるものaliquidとしてしか認識できないものです。いい換えれば自分の身体の現実的本性をあるがままに認識するcognoscereことはできません。第一部公理六から分かるように,真の観念idea veraというのは観念されたものideatumと一致しなければなりません。つまり僕たちは現実的に存在する自分の身体の本性を真に認識することはできないのです。あるいは同じことですが,十全に認識することはできないのです。このことは,自分の身体に限らず,自分の精神mensについてもあるいは外部の物体についても同様です。
                                   
 しかし一方で,僕たちは自分の身体を刺激するafficere限りでの外部の物体の本性は認識します。そしてこの限りでの本性も,その物体の現実的本性を含んでいるのです。同様に,僕たちは何らかの外部の物体に刺激されるaffici限りでの自分の身体の現実的本性についてはそれを認識します。これは第二部定理一九から明らかです。そしてこの限りでの自分の身体の現実的本性というのは,自分の身体の本性を含んでいるのです。よってこれらの表象像imaginesは,外部の物体のあるいは自分の身体の本性のありのままの観念ではありませんから,その真の観念あるいは十全な観念idea adaequataであるということはできず,したがって誤った観念idea falsaあるいは混乱した観念idea inadaequataではあるのですが,もし僕たちの身体が外部の物体に刺激される限りで真verumあるいは十全adaequatumといい得るような観念があると仮定するなら,それは真であるとか十全であるとかいい得るような観念ではあるのです。ある人間の精神の本性naturaを構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神Deusのうちに十全な観念があるというのは,そのような解釈を無限知性intellectus infinitusの一部を構成している有限な知性からみたものを,無限知性の見地からいい換えたものであるという解釈ができなくもないのです。
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