書簡六十四と書簡六十六のスピノザによるチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対する反駁を,僕は概ね次のように解釈します。
チルンハウスは観念ideaと別の観念は,観念対象ideatumの如何に関係なく,様態的に区別されるとみなしています。そのゆえに,第二部定理七備考は正しく,第二部公理五は誤りであると結論するのです。しかし実際には,観念が様態的に区別されるのは観念対象が様態的に区別される場合だけで,もし観念対象が実在的に区別されるのであれば,観念もまた実在的に区別されなければなりません。よって第二部定理七備考と第二部公理五は両立するのです。
ですからもし『エチカ』の中に不十分な点があるとすれば,それはふたつのあるいは複数の事物の区別distinguereのあり方を示した第一部定理四です。ここにおける実体substantiaの属性attributumの相違による区別と変状affectioの相違による区別についての悦明がやや不足しているのです。
まずここでは,属性の相違による区別すなわち実在的区別が有している本来の意味を示しておきます。
もしもAとBが,異なった属性であったり異なった属性に属する様態modiであったりした場合には,AとBは実在的に区別されます。いい換えればAとBの区別は実在的区別です。
次に,観念は観念対象が何であろうと思惟の様態cogitandi modiではありますが,Aの観念とBの観念の区別が実在的区別でないということはできません。もしAの観念の対象とBの観念の対象が異なった属性であったり異なった属性の様態であったりした場合には,Aの観念とBの観念は実在的に区別されなければならないのです。いい換えればこの場合のAの観念とBの観念の区別は実在的区別です。
実在的区別には上述のふたつの場合があると僕は解します。
次に徳virtusと満足とりわけ自己満足acquiescentia in se ipsoは,どの点で重なり合いどこで相違が生じるかを考えていきます。
第四部定理五二は,理性ratioから生じる自己満足について,最高の満足であるといっていますが,最高の徳であるとはいっていません。僕たちが理性によって神Deusを認識するcognoscereことができることは,第一部定義六において神が定義されているという事実から確かであるといわなければなりません。しかしこの定理Propositioがいおうとしているのは,理性によって僕たちが何かを認識するなら,理性によってそれを認識している自分のことも同時に認識しているから,第三部諸感情の定義二五によって自己満足も必ず生じるのであり,この種の満足以上の満足は僕たちにはあり得ないということなのです。つまりここではその認識cognitioが神の認識を含んでいるかいないかということは眼中に置かれてなく,単に満足という観点からそれが語られているのです。いい換えればこの定理は,理性から生じる自己満足が最高の満足であるといっているのですが,実際には理性によって何かを認識することが最高の満足であるといっているのにほかなりません。自己満足はそれに必ず伴うからです。よって僕たちが理性によって神を認識するのではなく,何か別の事物を認識し,かつその認識のうちに神の認識が含まれているかいないかということと関係なく,それは最高の満足です。
これに対して第五部定理二五は,単に満足について語ろうとしているのではなく徳について語ろうとしています。よってこちらは第四部定理二八の方から説明される必要があり,どんな認識であれその認識が神の認識を含んでいる必要があるのです。僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisを認識するときには,論証Demonstratioは必要とされないので,それが最高の徳であるということは僕たちは直ちに理解します。ただし,これは定理なので理性によって証明される必要はあり,そのために第五部定理二四が援用されています。かつ第二部定理四五により,現実的に存在するどんな個物の観念にも神の本性essentiaが含まれていることは明らかであり,個物の認識,十全な認識は第三種の認識なのです。
チルンハウスは観念ideaと別の観念は,観念対象ideatumの如何に関係なく,様態的に区別されるとみなしています。そのゆえに,第二部定理七備考は正しく,第二部公理五は誤りであると結論するのです。しかし実際には,観念が様態的に区別されるのは観念対象が様態的に区別される場合だけで,もし観念対象が実在的に区別されるのであれば,観念もまた実在的に区別されなければなりません。よって第二部定理七備考と第二部公理五は両立するのです。
ですからもし『エチカ』の中に不十分な点があるとすれば,それはふたつのあるいは複数の事物の区別distinguereのあり方を示した第一部定理四です。ここにおける実体substantiaの属性attributumの相違による区別と変状affectioの相違による区別についての悦明がやや不足しているのです。
まずここでは,属性の相違による区別すなわち実在的区別が有している本来の意味を示しておきます。
もしもAとBが,異なった属性であったり異なった属性に属する様態modiであったりした場合には,AとBは実在的に区別されます。いい換えればAとBの区別は実在的区別です。
次に,観念は観念対象が何であろうと思惟の様態cogitandi modiではありますが,Aの観念とBの観念の区別が実在的区別でないということはできません。もしAの観念の対象とBの観念の対象が異なった属性であったり異なった属性の様態であったりした場合には,Aの観念とBの観念は実在的に区別されなければならないのです。いい換えればこの場合のAの観念とBの観念の区別は実在的区別です。
実在的区別には上述のふたつの場合があると僕は解します。
次に徳virtusと満足とりわけ自己満足acquiescentia in se ipsoは,どの点で重なり合いどこで相違が生じるかを考えていきます。
第四部定理五二は,理性ratioから生じる自己満足について,最高の満足であるといっていますが,最高の徳であるとはいっていません。僕たちが理性によって神Deusを認識するcognoscereことができることは,第一部定義六において神が定義されているという事実から確かであるといわなければなりません。しかしこの定理Propositioがいおうとしているのは,理性によって僕たちが何かを認識するなら,理性によってそれを認識している自分のことも同時に認識しているから,第三部諸感情の定義二五によって自己満足も必ず生じるのであり,この種の満足以上の満足は僕たちにはあり得ないということなのです。つまりここではその認識cognitioが神の認識を含んでいるかいないかということは眼中に置かれてなく,単に満足という観点からそれが語られているのです。いい換えればこの定理は,理性から生じる自己満足が最高の満足であるといっているのですが,実際には理性によって何かを認識することが最高の満足であるといっているのにほかなりません。自己満足はそれに必ず伴うからです。よって僕たちが理性によって神を認識するのではなく,何か別の事物を認識し,かつその認識のうちに神の認識が含まれているかいないかということと関係なく,それは最高の満足です。
これに対して第五部定理二五は,単に満足について語ろうとしているのではなく徳について語ろうとしています。よってこちらは第四部定理二八の方から説明される必要があり,どんな認識であれその認識が神の認識を含んでいる必要があるのです。僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisによって個物res singularisを認識するときには,論証Demonstratioは必要とされないので,それが最高の徳であるということは僕たちは直ちに理解します。ただし,これは定理なので理性によって証明される必要はあり,そのために第五部定理二四が援用されています。かつ第二部定理四五により,現実的に存在するどんな個物の観念にも神の本性essentiaが含まれていることは明らかであり,個物の認識,十全な認識は第三種の認識なのです。