Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

Japan Blues Festival道中記~5 Sweet Home Chicago

2012-07-28 11:44:33 | music/festival
3日間の全日程を終え、大成功のうちに記念すべき10周年のJapan Blues Festivalは終了した。
地元の人たちの温かい声援、応援、全国から集まったブルース好きの人たちの熱い想い・・・すべてが見事にひとつになった、手作り感の残る素晴らしいイベントだった。

会場で販売したCDも順調な売れ行きで、彼らにとっても大きな収入となった。
なんといっても今は最強の日本円。アメリカ(ドル)では手の出ないような価格でも、日本では飛ぶように売れていく。
これがライブマジックなのだ。

さて、最後の打ち上げ会場は、市内にあるとある民謡酒場。
ここでは津軽三味線とじょんがらの生ライブをやってくれる。


日本の三味線の音色とその見事なバチ捌きに、シカゴのギタリストたちも目が釘付け。
今ライブを終えたばかりのブルースマンたちも、次々と舞台にあがって曲を披露していく。
こんな風景、アメリカじゃ見たことない。

 
どこでも本気で演奏してくれる、マシュー・スコラーとルリー・ベル。

どちらかというといいかげんな人が多いブルースマンのなかで、マシューは本当に頼りになる人。
成田に入国する際、私がルリーの入管につきっきりになってしまいマシューを置いてけぼりにしてしまったり、羽田の乗り継ぎでJALとひと悶着してせっかくの乗り継ぎ休憩時間を無駄にしてしまったことでは、しょっぱなから彼に怒られた。
また青森入りしてからもスケジュール変更を何度も求められたりしたけれど、それはすべて最高の音楽を届けたいというプロ意識からだった。
終わってみれば、彼と一番解り合えて信頼し合える関係を築けた気がする。
2日目に携帯(iPhone)を無くし、それ以降かわいそうなくらいしょんぼりして動揺していたが、最終日のパフォーマンス直前に見つかったという朗報が控室に飛び込んだ、そのときのうれしそうな顔が忘れられない。
打ち上げでよかったね、と声をかけると「あんなものはただのプラスチックの塊なのさ。どうってことじゃないさ」と強がっていたけど。
駆けずり回って探してくれた青森の商工会議所青年部のメンバーの気持ちをしっかり受け取っていたようだった。



ヴィノとマシュー。
「こういう余興ってものをオレは普段は絶対やらないんだ。でも今回は別さ。何かが俺をそうさせたんだ」と、ヴィノは私に耳打ちした。

一度ホテルのロビーでたまたまヴィノとゆっくりしゃべる機会があったが、彼は本当にまじめな人。
黒人のミュージシャンに珍しく政治的な話題まで持ち出したのには、むしろこちらがびっくり。
「みんなには黙ってたほうがいいよ。だいたいミュージシャンがポリティカルな話なんかすると嫌われるからね」とおどけて見せたのが印象的だった。
ドラマーのブライアンもそうだが、ココのバンドメンバーは皆、きちんと人格も教養も備わっている。
ココ・テイラーという人が何を大切にしてメンバーを集めたのか、今回はっきりとわかった。


ブルースマシーンの3人、ヴィノ、ブライアン、Shun。
この3人は4年前に同じツアーバスに乗っていて大事故に会い、その大怪我から立ち直ったサバイバーたち。
お互いがこうして生き残って演奏できた喜びに、固くハグを交わす。
事故後、重体だったヴィノを同じ病院に搬送されていたShunが見舞ったとき、「早くよくなってまた一緒に演ろうな」と声をかけたことをヴィノは朦朧としていた意識のなかではっきりと覚えていたそうだ。
「オレを置いていかないでくれ」と全身の力を振り絞ってShunの手を握り返し、意識が戻ったのだという。
音楽でつながった命・・・ヴィノが感極まって涙をうかべたのを見て、思わずもらい泣き。

思えば、Shunさんとの出会いは2007年の6月、まだカリフォルニアに住んでいた頃見に行ったRussian River Blues Festivalだった。
ココ・テイラー&ブルース・マシーンに出演していたShunさんを見た友人に誘われて、彼に挨拶にいったっけ。
3か月後にはシカゴに移ることが決まっていたので、シカゴでの再会を約束。シカゴでは度々ライブを見に行った。
どんな場面でもファンを大切にし、謙虚でいつも自分の音に真摯だった。
ココから絶大な信頼を得ていたのもうなずける。
去年から活動の拠点を台湾に移し、アジアの底上げを図るべく「シカゴブルースの伝道師」として幅広く活躍している。
日本のブルースシーンには欠かせないギタリスト。



底抜けに明るいウィリーと、ヴィノが歌うブルースに会場がひとつになる。


ウィリーは柳のように飄々としていて、一緒にいるとほっこりする人。
朝からブランデーの匂いをぷんぷんさせている、大のハドリッカー好き。奥さん思い。



紳士、ビル・シムズ。
JAZZを歌っている私に「これを聴け」と、コルトレーンとジョニー・ハートマンをはじめいろんなJazzを聞かせてくれたり、
朝方まで発声練習やフェイク練習をつきっきりで教えてくれたり。
音楽に対する愛は並大抵じゃない。本当に熱いハートの持ち主。



今私が一番好きなシカゴのギタリスト、ルリー・ベル。
彼と一緒にシカゴから来ることができた、それだけでも私にとっては光栄のいたりだった。
入国に必要な書類を無くしたりして一時はどうなることかと思ったが、初日に彼の歌声を聴いたときには今までの苦労が一気に吹っ飛んだ。
2日目の演奏のあと、観客席からステージをじいっと見つめながら「僕はこのフェスティバルがとっても好きだなぁ」とつぶやいたのがとても印象的だった。
この日も「日本の人たちはとても熱いハートをもっていて心から演奏を楽しんでくれる。演りながらそれを感じることができるんだ」と話してくれた。
シカゴに戻ったらまた彼のステージを見に行こう。今度は小さなライブハウスで。

★ ★



疲れを知らないミュージシャンたちは、2次会のライブハウスへ。
青森最後の夜は彼らのジャムセッションで更けていく・・・実は私もピアノで参加。
恭司さんとフェルトンと共演するなんて、なんたる贅沢!
素敵な思い出をありがとうございました!


Felton Crews(フェルトン)は体に似合わずとてもロマンチスト。
大汗をかきながら大きな男たちの案内役に走り回っていた私に、「君はとてもハートの温かい人だね」と、優しい言葉をかけてくれた。
かのマイルス・デイビスが沈黙を破って発表した名盤「The Man With The Horn」(1980)でベースを担当、世界ツアーも回っているスーパー・ミュージシャン。偉ぶったところがかけらもなく、青森にすっかり溶け込んでいた。
“いじる”と面白い性格で、ライブの合間にはよくおちょくり合って遊んでいた。
国も肌の色も生まれ育った環境も全く違うのに、なぜかすーっと心が通じ合う。今では私のbest friend。
シカゴで待っててね!


 

午前3時すぎ。
帰る気配すらなく最後まで酒を飲んでJamっていたのがビル、フェルトン、ウィリーの大男たち3人。
この人たちはどうしてこんなに元気なんだろう!?
でも彼らがここに残っている限り、私とて帰るわけにはいかぬ。彼らをシカゴから青森へ、そして青森からシカゴへ送り届けるのが私の責任であり使命なのだ。
Senさんからも「最終日の夜は特に気をつけて」と聞いていたとおり、肉食系女が現れてミュージシャンをお持ち帰りしようとしたがそれを一喝し、なんとか3人をホテルに連れて帰った。

ホテルに帰って「ここで何あったらどうすんのよ!」と大男3人に思わず説教しちゃった(反省)
「Shoko、そんな悲しい顔しないで。僕たちは慣れてるのさ。それに僕たちの“Yes”は“No”って意味なんだから。絶対に行かないよ。心配しないで」と逆に慰められる始末。

なんだか私、最後には彼らのママみたいになってしまった。
マシューも「ShokoはDen Mamaだね」と私に冗談めかして言っていたっけ。
Den Mamaというのは、グループのまとめ役であり護衛係を務める人物をさす言葉。
ツアー添乗員から始まって、通訳、よろず相談係、クレーム処理係、荷物係、そして最後は用心棒(笑)



7月22日

外が明るくなった頃ようやくベッドでうとうと。2時間くらいは寝るか、と思っていたらいきなりヴィノから電話で起こされる。
「CDの売り上げはいつ渡してくれるの?」
事務局に確認をし、出発前にホテルのロビーですべてを精算することになった。
事務局の方が昨夜打ち上げにも参加せずにほとんど徹夜で作成してくれた売上表とお金がホテルに到着。ひとりひとりに3日間のCDの売り上げ枚数と売り上げ費を説明して渡していく。
特に、チックは今回60枚を超す売り上げで、大きな成果を上げたようだった。
これほどのミュージシャンになっても、やはりアメリカで音楽だけで身を立てていくのは難しいのが現実。1枚でも多くCDが売れてほしいという思いがあったのでこの結果は私にとってもうれしかった。



羽田空港で出演者と最後のショット。
シカゴから一緒に来たときはゆっくり話す余裕すらない上に、名前と顔すら一致せずに混乱した人たちもいたけれど、この濃い4日間を経て今ではひとりひとりのことが手に取るようにわかる。
誰一人とも別れがたい、そんな感情が沸き起こってくる。

そして、今回誰よりもこのフェスティバルにふさわしかった人が、真ん中のバリー・ドリンズさん。
シカゴ市のイベント室長を約30年の間務め、「シカゴ・ブルース・フェスティバル」生みの親でもあるシカゴイベント界でも最重要人物。
10年前にJapan Blues Festが始まった時から、シカゴ市との橋渡し役を務めてくれた。この人なしではこのイベントは実現しなかったかもしれない。
今回は特別ゲストとしてご招待、記念すべき10周年を3日間ずっと静かに見守っていてくれた。
私はミュージシャンにかかりきりになってしまってあまりお話をすることができなかった、これだけが心残り・・・。
本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。



お盆休みを日本で過ごすために、私は成田でみんなとしばしのお別れ。
「Shokoは一緒に帰らないのか?」「シカゴに戻ったら絶対に連絡しろよ」「ランチでも行こう」
みんなから口々にそう言われ、全員でボロボロになって青森に到着した4日前が遠い昔に思われた。



成田で。出国前のビル・シムズとブライアン。
ブライアンは年上なのになんだか弟みたいな存在だった。
私がずっと咳を繰り返していると、「絶対に医者に行くんだよ。約束だよ!」と何度も心配してくれた。
「シカゴに戻ったら、僕たち夫婦とShokoの夫婦と4人で食事に行こうね」そういって別れを惜しみながら帰って行った。


私の任務は成田で終了。
長いお盆休みを日本ですごし、来月シカゴに戻れるその日が早くも待ち遠しくて仕方ない。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Japan Blues Festival道中記... | TOP | 怒涛の日本ツアー、完結。 »
最新の画像もっと見る

post a comment