Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

お隣さんの秘密。

2009-10-02 03:24:19 | アメリカ生活雑感
1ヶ月ほど前のこと。
ご近所で一番仲良くしているキャロリン夫妻から、子どもたちが寝静まったあとに夫婦で一緒になにかつまみながらおしゃべりしませんかとお誘いを受けた。
いつもは3人の子どもたちに時間をとられてほとんどプライベートがないという彼女なので、こうやって誰かが来てくれることが一番うれしいという。

Pちゃんも私も、夜8時からの集い、すなわちワイン&チーズと決めてかかっていたけれど、このご夫婦、まずもってアルコールは飲まないらしい。
昨年のサンクスギビングのときに持っていった赤ワインがそっくりそのままキープされていて、しかも冷蔵庫に入っていたというオチつきだった。

そのいわくつきのワインを半年以上ぶりに開け、形だけグラスについでまずは4人で乾杯したあと、いろんな話で盛り上がる。
そして、自然とキャロリン&ケヴィン夫妻の子どもたちの話題に。
夫妻には6歳になる長女のカイラ、3歳の長男ブランダン、1歳半の次男クレイという3人の子どもたちがいる。
おおらかな夫妻の愛情をいっぱいに受けて、みんなのびのびと育っているといった感じだ。
カイラは年齢からするとエレメンタリースクール(小学校)新入学の年だが、驚いたことにキャロリンは彼女を家で教育するという。
この瞬間、Pちゃんも私も口には出さないまでも即座に「もしや・・・」といやな予感が頭をよぎる。

そう、アメリカでホームスクール、いわゆる学校に行かせず家で教育を受ける家庭の75%は、キリスト教原理主義(エヴァンゲリカル・クリスチャン)である。
ひょっとしてこの夫婦もそうだったのか??

もちろん、ふたりが敬虔なクリスチャンであることは知っていた。それはアメリカではごくごく当たり前のことだし、話をする限りふたりは普通の“節度ある”クリスチャンだと思っていた。
特にケヴィンは、子どもには教育チャネルしか見せないと言っていたので全くもって原理主義のげの字も想像していなかった。

Pちゃんも私も、ホームスクールで内心激しく動揺したものの、まあそういう教育方針ということもあろうと平静を装う。
「近所のお友達が一緒のスクールバスで学校に行くのをうらやましがらない?」
「その年齢でお友達ができなくては心配じゃない?」
「本人が学校に行きたいっていいだしたらどうするの?」
などなど、いろいろと素朴な疑問をふってみた。
Pちゃんなんぞは、
「学校にはいろんないやなこともあるし、いじめに合ったりすることも考えるとそういう(在宅教育)もひとつの手だよね」などと、自らの経験を語りながら肯定気味に相槌を打つ始末。
これには私もちょっと驚いて
「いやいや、そういう悪い経験もすべて含めて学校というのは大切なんじゃない?世の中はもっと厳しいわけで」
と思わず反論。
当の夫婦よりも私たちのほうが熱くなってしまったのだった。

キャロリンは穏やかな口調でこういうのだった。
「そうね。カイラが自分から行きたいって言い出したらそのときに話し合って決めてみようと思うの。それまでは、私がなんとかやってみるわ」
そして、「こんないい教材があるのよ」と持ち出した教材を見て、Pちゃんの顔色が変わった。(私はこのときは全く知らなかった)

その教材「アポロジア」(Apologia)
こそ、エヴァンゲリストご用達のホームスクール用テキストブックだったのだ。
そのときは「ああ、こういうのもあるのね」とうまく話をあわせてお茶を濁した私たち。
帰りの足取りはふたりとも、ず~んと重かったのは言うまでもない。

なんだ、この絶望感は・・・。
またこうやって、いたいけな子どもたちが恐ろしい宗教の毒牙に飲み込まれていく。彼らには何の罪もないというのに。
カイラは本当に聡明な女の子だ。
彼女の頭はスポンジのように、何でも吸い込んでいくのだろう。
地球の年齢は6000年で、かつて恐竜と人類は共存していた、などと教え込まれるのか?
進化論はでたらめ。すべて生命は神によって作られた、と・・?

この夫婦はまったく普通の、穏やかで細かい気配りのできるやさしいご夫婦である。だからこそ、彼らのごく自然な選択が余計に悲しい。
何より、こうやって親の意思にしたがって“洗脳”の海に入っていこうとする子どもたちを救えないことが切ない。

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親がよいと思ってること (やっちゃん)
2009-10-02 21:59:16
学生の頃、教育学を専攻していたんだけど、何かの授業で
「親がよかれと思って施す教育が、なぜうまくいかないか?」だったか「どうして子供がうまく育たないのか?」
みたいな議論をしたことがあるなぁ~。
それを思い出しました。公教育の必要性とか教育の自由化を懸念するということを考える授業だったような気がする。
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Unknown (ブラック)
2009-10-07 00:32:16
バークレーしか米生活がない私には、いわゆる原理主義のクリスチャンの実態を知らない・・・という前提でのコメントとなってしまうわけなので、情報としては非常に乏しい中で書いています(バークレーというのはリベラルだし、ほんとマイノリティにもとても住みやすいとこだった)。

この話題は、私にもとても考えさせられる問題。私自身は、人生の様々な出会いの中で、キリスト教の洗礼を受けることを23歳にて自分で決め、そうなったのですが、ところが、うちの子にとっては、生まれたときから環境はキリスト教。これはいいのか、悪いのか?

ただ、いづれにしても親は自分の大切だと思う価値観を教えるのは重要なこととは思うのです。つまりそれは、クリスチャンになるとか、仏教徒として生きていくという表面的なことではなく、一人の人間として何を大切にして、何を模範として生きていくかということを生き方を通して教えるべきではないかということのような気がするのです。

我が家の場合、それがキリスト教というひとつの枠組み(生き方)であったということなのかもしれませんが、でも同時に、将来、親が指し示した価値観に疑問を呈すること、批判することももちろん許容しなければ、それはやはり単なる洗脳ではないかと思うわけです。「洗脳」と、「価値観を示す」、ということの違いは、やはり、それ以外の価値観にも謙虚に耳を傾ける姿勢を持つかどうかってことなのではないでしょうか?

原理主義者の実態を実感として知らないものがこういうと、机上の空論のような意見に感じるかもしれないけれど(ぶっしゅのやったことにはホント腹立ったからねー。叩き潰せ!!とおもったしね)、そう思うわけです。

自分の今日この頃もこれでいいのかと思いつつね!!
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親の懐 (shoko)
2009-10-07 05:36:14
やっちゃん:
考えてみれば、ホームスクールという考え方そのものを否定してしまう理由は何もない気がします。日本の教育制度はそのあたりをどう議論して決められたものなのか、逆に興味があります。
今度教えてくださいね。

ブラック:
私もバークレーにいるころは本当に恥ずかしいくらい何も知らなかった。周りにそんなことを議論させる偏った人たちがいなかったもんね。
でもやはりアメリカの半分を占めるといわれる原理主義は、知れば知るほどものすごいものがあります。大学の授業で多くのビデオを見たり、あの悪名高いFOXニュースのコメントを見たり聞いたりしていると、本当にここは世界の大国なのかと耳を疑ってしまいます。

私も全くブラックと同感で、宗教というのはひとつの“倫理観の枠組み”にすぎない、むしろそうでなきゃいけないと思っています。だから、子どもがどんな宗教の家庭で生まれようが、それは親が正しい価値観を教える上での“共通の場所”のようなものじゃないかと。

ばりばりキリスト教の教育を受けて育っても、たとえばPちゃんのように「これは自分に合わない」と感じたらきっぱり離脱する人もいるわけで、それを容認できる親ともども双方ある種の潔さと勇気が必要だと思います。
逆に、ブラックや多くの人たちがそうであるように大人になってからそれぞれの理由で自らキリスト教の門をくぐる人たちもいて、その決断、選択もまた誰からも妨げられるものではなく尊重されるべきだと強く思います。

私は全くもって無宗教なのですが(日本人だからどこかで神道であり仏教徒なんだろうけど、これは宗教のカテゴリーには入らないしね)、私がもしモスラムの国に生まれていればイスラム(アラー)の教えに従う人間になっていたわけです。それは肌の色と同じく誰にも選択できないことなのです。
だから自由に出入りできる権利が与えられる、これが理想じゃないでしょうか。

「洗脳」という言葉は確かにちょっと不快感を伴うかもしれませんが、
「ハリケーンカトリーナが起こったのは温暖化ではなくすべて“ゲイ”のせいだ」「人類はアダムとイヴから生まれた」「すべては神から作られた」
という非科学的なことを本気で唱え、21世紀に生きていく子どもたちに教えていく教育は、やはり“洗脳”といわざるをえません。
こういうの、日本じゃ考えられないし創造もできないよね。

私は「宗教は(人間が)救われるために存在するもの」と常々思っているので、誰かを憎んだり(今はオバマが標的)、歪んだ人間像を作る原理主義は宗教と呼ぶまじき、とさえ思います。
同じキリスト教と呼ばれること自体、本来キリスト教の人たちからすると迷惑なことなんじゃないでしょうか?
これも興味があるので今度教えてください。




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