友成家の資料は先にも随分オークションに出品されていました。なんとかご子孫の元に返らないかと願うばかりです。
史談会の例会まであと10日、史料を準備して読み下し文を作成、後は20数部コピーをするだけである。
その旨で案内状を作ろうと原稿も出来た。こちらも葉書を買ってくればいつでもOKの状態である。
昨日綱利公の跡目に関する細川内膳家の事を書いた後、すっかり考え込んでしまった。
細川家の跡目相続は、養子が入る度にいつも一もんちゃくが起こっている。宣紀・齊茲・齊護などである。
よせばいいのに、ふとこのことを取り上げてみようと思い立った。手元の史料を引っ張り出して資料作成、釈文は以前作っていたものがあって、これを詳しく見直しOK。
これに伴い案内状を作り直しの準備をする。
先に準備した資料はおしゃかになってしまった。自分で仕出かしたことだから自業自得ではあるが、すっかり疲れてしまった。
まずは案内状を印刷しようと頑張っている。往復はがきの印刷は何度やってもミスしてしまうのだ。これが終われば一段落、コーヒーでも沸かすことにしましょう。
以前ご紹介した 細川右京(内膳)家資料集 に、お身内のみが承知しておられたと思われる記事がある。
それは、細川内膳家四代の忠重が藩主・綱利の後継争いに敗れ、綱利により隠居を強要されたとするものである。(31歳)
その後、次の藩主となった宣記(綱利弟・利重二男)により「押籠め」の処分がなされたという。61歳で亡くなったが内膳家の墓所(瑞巌寺)に埋葬する事も許されず、久本寺が墓所となった。又瑞巌寺にすでに埋葬されていた生母や奥方も改葬が指示され久本寺に移されたとされる。
正式には表に出ない秘事を、あえて著者の菅(細川)芳生氏は内膳家の資料から明らかにされた。
菅氏は綱利公の後継者として忠重を推す勢力があり、後継争いがあったとされる。
そのことがもたらした結果として、隠居・押籠・内膳家墓地への埋葬の不許可に至ったものだと結論づけをされている。
平成二十年八月瑞巌寺跡の内膳家墓地は改装され、忠重夫妻と生母のお墓は久本寺から移された。
歴史の表に出てこない隠された真実は背筋をぞっとさせるものがある。
荒木山城(左助 高則)については、綿考輯録などでも特に取り上げられているが、「慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死」と記されているが、真実の処はどうやら違うらしい。
どこで何が有ったのかよく判らないが「不慮ニ闇討ニ逢被申」という事件で落命しているようだ。盤桓随筆には次のようにある。
一、荒木左助ハ与十郎様(細川孝之)の内ニ居たりしが高木貞宗の中
脇差御帷子被下後ハ御直ニなり山城と名付給ひし也 親ハ
荒木民部大輔 祖父ハ山城と云て丹波侍也 藤孝公・忠興
公と明智殿嶺山城を踏潰し給ふとき荒木民部明智
殿家来ニ成しが其時振悪かりしかハ■の民部が事ハ何
共不被仰祖父にも負ぬ働したれハ荒木山城ト御付被成候
一、先御代荒木左次馬儀後家光(尚 脱ヵ)公御代御世話成被申善兵
衛先祖カト被仰下候 是ハ荒木左助妻ニて荒木小助
助左兵衛母ニ而御座候 善兵衛トハ同名ニ而ハ御座候へ共
氏チガイト見へ申候 荒木左助ハ不慮ニ闇討
ニ逢被申小助助左兵衛兄弟数年牢人イタシ
無難首尾能敵ヲ打小笠原備前殿トハ由緒有之
御當家へ被召返ト申傳へ承傳候 外ニハ具■
に不存候 當分ハ左次馬名跡ヲ継被居候
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■ 荒木慎十郎 【丹後以来】 源 (南東44-4)
高子(山城守) 坂本戦にて討死
高兼(民部大輔) 同上
山城(左助 高則)
荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
(綿考輯録・巻11-P113)
岐阜戦功・首取候衆
田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
(綿考輯録・巻14-P257)
(慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
(一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、藤
孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振舞悪しく
候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被成候との事
なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城を守り、其子民
部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左馬助光春安土より坂
本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高則此時十四歳、纔に残兵
三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝
鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニて武功有、此働を御感賞、其日の
晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不申候 (綿考輯録・巻17-P411)
次郎大夫(外斉 助左衛門弟)
山城項より
外斎とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中殿へ有
付候へと又致浪人、後小笠原備前にかかり病死いたし候 (綿考輯録・巻14-P257)
1、助左衛門 (1)御鉄炮五拾挺頭 五百石 丹後 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御添頭衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
(3)御使番・續団右衛門組二百石、京都詰ノ間八木百石被下之
御使番列高百ノ物成被下之 (御侍帳・元禄五年比カ)
細川忠興公宛行状
細川忠利公御書出(寛永十年)五百石
細川光貞公宛行状
細川綱利公御書出
最近オークションに三斎公の書が度々出品されている。真筆もあれば祐筆の手によるものもある。
三斎公の筆跡は少々荒っぽい独特のものがある。真筆と祐筆の筆による相違は容易に見分けがつくと思うのだが・・・・
(読み下しは後ほど・・・・)
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真田四代と信繁 (平凡社新書) |
平凡社 |
内容説明
信濃国小県郡真田郷を本拠とする真田氏は、武田、上杉、北条、織田、徳川など並みいる大大名らに囲まれつつも、幾多の難局を乗り切り、ついには近世大名として家を守りとおした。したたかに、実直に生きのびた武家一〇〇年の歩みは、お家生き残りの物語であった。「表裏比興者」昌幸、「日本一の兵」信繁(幸村)をはじめ、16~17世紀、戦国期に活躍した真田氏歴代の歩み。
目次
はじめに
一章 真田幸綱 真田家を再興させた智将
真田家の系図主張/滋野氏の発祥/滋野氏と信濃/海野氏の勃興/大塔合戦と結城合戦
真田「幸隆」の実名/海野棟綱との関係/「真田右馬助綱吉」とは何者か/海野平合戦
武田信虎の追放と山内上杉氏の信濃出兵/幸綱の武田家従属/砥石城攻略と本領復帰
姻戚関係の構築/川中島合戦/西上野侵攻と岩櫃城将就任
二章 真田信綱 長篠の戦いに散った悲劇の将
正室「於北」と信綱の家督相続/四阿山信仰と真田氏/真田家当主・岩櫃城将として
長篠の戦い
三章 真田昌幸 柔軟な発想と決断力で生きのびた「表裏比興者」
人質からの出世/正室山之手殿の出自/真田領検地/沼田城攻略/「北上野郡司」として
高天神崩れと新府城築城/武田家滅亡/織田政権への従属/本能寺の変
「天正壬午の乱」のはじまり/昌幸、徳川家に従う
徳川氏と北条氏の和睦──「天正壬午の乱」の終結/上田城築城/小県郡を制圧
第一次上田合戦/秀吉への接近/「表裏比興者」、豊臣政権への服属
信長・秀吉の「惣無事」/秀吉の「惣無事令」と「沼田領問題」の裁定/名胡桃城事件
小田原合戦のはじまり/鉢形城攻略と小田原合戦の終結/小山田茂誠の家臣化
豊臣政権下の真田氏と石田三成/朝鮮出兵の中の真田氏/関ヶ原の戦いへの道
政権奪取の布石を打つ家康/第二次上田合戦/高野山配流と死去
四章 真田信繁 戦国史上最高の伝説となった「日本一の兵」
実名と生没年/木曽での人質生活/越後での人質生活/豊臣政権と岳父大谷吉継
馬廻信繁の知行地とその支配/「秀次事件」と信繁/九度山での生活/大坂入城
真田丸築城をめぐる真相/大坂冬の陣と真田丸の攻防/信繁に仕掛けられた寝返り工作
講和の成立/大坂夏の陣へ/道明寺の戦い/信繁の討死/豊臣家の滅亡/信繁妻子のその
五章 真田信之 松代一〇万石の礎を固めた藩祖
上野在城とふたりの妻/豊臣政権下の信幸/石田三成との交友
小県郡の知行改めと上田領の復興/藩政機構の整備/松代転封
あとがき
年表
主要参考文献
以前著者の吉村先生の講演をお聞きした時、「現在天草四郎の事を書いている」と仰っていた。まだだろうかとずっと思っていたら、何と2015年4月24日初版で発行されていた。講演はいつのことであったか、何の講演だっらのか思い出せないでいる。なんともお粗末な話、どうぞご一読を・・・・・
![]() |
天草四郎の正体 (歴史新書y) |
熊本大学名誉教授・吉村豊雄 | |
洋泉社
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内容(「BOOK」データベースより)
幕末以前の江戸時代最後の内乱であり、日本史上もっとも大規模な農民反乱である「島原・天草の乱」の盟主・総大将とされる天草四郎。美少年として誰もが知る日本史上の有名人物。じつはその実像は明らかではなく、最期さえわかっていない。本書はさまざまな史料を駆使して解明した「天草四郎は一人ではなく、複数の少年の総称であった」という衝撃の真実に迫るものである。
○富士三里に灸をすへ申度今朝押付點にてすへ申候處富士は頭上之絶頂にすへ申候得共三里の穴分りかね申候 人の身の里數は凡何寸一里に仕たる物
にて御座候哉蹈出の一里木は鼻に極め可申哉臍に究可申哉御尋申候
○しよふべん田子今朝打割申候付御無心ながら御裏の御しようべん田子に此方より筧を仕懸度存候 御故障無之候ハヾ直に部屋の椽より仕懸度御様子被
仰越次第家来五助に大竹切らせ可申所存候
○雪隠の家根に涼棚しつらい見懸り之植込には都て麥の粉をぬり雪隠の氣色見るも涼しく誠に兎角を不被申候 坒御涼かてら御出待入候
○當八月十五日若哉月夜共に御座候はヾ去年之通御出待入候 扨又昨日は御土産として摺鉢壹つ被懸貴意忝存候 早速嚊(嬶)しゆびんに可致候 御禮申
述候
○拙者方泉水に伊勢海老飼申度年来之所存に候 幸貴様今度御参宮之由御歸之節田子一ツ御持下り可被下候嘸(サゾ)泉水に紅葉之散たる様にて美敷可
有之と夫已たのしみ申事に候
○悴事只今蜂にさヽれ大難渋いたし候 妻歯糞かならずとみがき落し申候 御内室様御歯糞此貝から一ツ御所望申候
○喬麥粉少々見出申候團子汁致筈にてこね候處少々致不足候に付豆腐の粕まぜ申候處ねばりけ薄候付乍御無心昨日御細工残之醤麩御借用申度候
○御釈迦之水田子の一つ御所望に上げ申候處御納所甚奢被申候 いか様之儀に而御座候哉御様子可被仰越候 惣躰此節に不限御納所私事をくの一好
きと被申候いか様成儀に御座哉可被仰下候以上
○娘初雛にて幕入用に御座候 申兼候へ共御子息様赤ひ(緋)のヽ御下帯両三日御借用可被下候已上
○上方より博奕打之名人下り申候由承り申候 扨々氣味悪敷事共に御座候 随分御用心可被成候 扨私火事羽折火の子にて度々焼申候間此節昆布に而
仕立申度存立申候しやらは藻こんふ又は切あらめにても相用可申候得計御積らせ可被下候以上
(了)
まことに偶然だがヤフオクに二点の三斎公のものとする書が出品されているが、明らかに筆跡が違うのがお判りであろう。
一点は祐筆の筆になるものだろう。応札者がおられるから詳しい事は差し控えたがよさそうである。
13細川三斎(忠興)書状/掛軸 古文書 中津・小倉藩主 千利休
オープンから一週間遅れの今日、午後から天気も良かったので熊本県立図書館併設のくまもと文学・歴史館出かけてきましたが・・・・
わくわくして行っただけに少々物足りない感じは否めませんでした。目玉がない!!!
外に出て旧細川別邸である敷地を散策、デジカメで撮影しようと思ったら電池切れ・・・
いささか憂鬱な気持ちで帰宅と相成りました。
護光夫人亜衣様の料理に関する本が、若い方ならずとも女性に受けているらしい。すっかり熊本に足を付けられてご活躍である。
camellia 細川亜衣 料理教室 http://kumamototeshigoto-labo.jp/special.php?id=11
食記帖 見た目ではない、味なのだ。
スープ 料理は物語だ。 愛しの皿