荒木山城(左助 高則)については、綿考輯録などでも特に取り上げられているが、「慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死」と記されているが、真実の処はどうやら違うらしい。
どこで何が有ったのかよく判らないが「不慮ニ闇討ニ逢被申」という事件で落命しているようだ。盤桓随筆には次のようにある。
一、荒木左助ハ与十郎様(細川孝之)の内ニ居たりしが高木貞宗の中
脇差御帷子被下後ハ御直ニなり山城と名付給ひし也 親ハ
荒木民部大輔 祖父ハ山城と云て丹波侍也 藤孝公・忠興
公と明智殿嶺山城を踏潰し給ふとき荒木民部明智
殿家来ニ成しが其時振悪かりしかハ■の民部が事ハ何
共不被仰祖父にも負ぬ働したれハ荒木山城ト御付被成候
一、先御代荒木左次馬儀後家光(尚 脱ヵ)公御代御世話成被申善兵
衛先祖カト被仰下候 是ハ荒木左助妻ニて荒木小助
助左兵衛母ニ而御座候 善兵衛トハ同名ニ而ハ御座候へ共
氏チガイト見へ申候 荒木左助ハ不慮ニ闇討
ニ逢被申小助助左兵衛兄弟数年牢人イタシ
無難首尾能敵ヲ打小笠原備前殿トハ由緒有之
御當家へ被召返ト申傳へ承傳候 外ニハ具■
に不存候 當分ハ左次馬名跡ヲ継被居候
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 荒木慎十郎 【丹後以来】 源 (南東44-4)
高子(山城守) 坂本戦にて討死
高兼(民部大輔) 同上
山城(左助 高則)
荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
(綿考輯録・巻11-P113)
岐阜戦功・首取候衆
田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
(綿考輯録・巻14-P257)
(慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
(一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、藤
孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振舞悪しく
候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被成候との事
なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城を守り、其子民
部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左馬助光春安土より坂
本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高則此時十四歳、纔に残兵
三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝
鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニて武功有、此働を御感賞、其日の
晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不申候 (綿考輯録・巻17-P411)
次郎大夫(外斉 助左衛門弟)
山城項より
外斎とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中殿へ有
付候へと又致浪人、後小笠原備前にかかり病死いたし候 (綿考輯録・巻14-P257)
1、助左衛門 (1)御鉄炮五拾挺頭 五百石 丹後 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御添頭衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
(3)御使番・續団右衛門組二百石、京都詰ノ間八木百石被下之
御使番列高百ノ物成被下之 (御侍帳・元禄五年比カ)
細川忠興公宛行状
細川忠利公御書出(寛永十年)五百石
細川光貞公宛行状
細川綱利公御書出