津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・中公新書「古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人」

2016-02-18 20:59:35 | 書籍・読書
     古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人 (中公新書)
 
                         中央公論新社

内容紹介

信長や秀吉に仕えて勲功をあげ、千利休の死後、特異な芸術センスで一世を風靡した武将。「ひょうげもの」と呼ばれた男の実像に迫る。


第1章 一大茶人に至るまで―生誕から信長時代
第2章 利休の門人となる―豊臣政権確立期
第3章 師の側近として―天下人秀吉の時代
第4章 天下一の茶匠―関ヶ原合戦前後
第5章 巨匠の死―大坂夏の陣まで
終章 織部の実像

内容(「BOOK」データベースより)

織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献。他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となる。利休死後、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。だが、大坂夏の陣で豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられる。その死の背景に、徳川政権の盤石を期す家康の思惑はなかったか―。美の世界に革命をもたらした稀有の茶人の実像に迫る。

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■松寿庵先生・第179講

2016-02-18 17:59:34 | 史料
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■「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その五(了)

2016-02-18 08:54:33 | 史料

 ここからは綱利の肥後国遺領相続の決定に至る断階で、宇土支藩の中でおきた不幸な事件についてである。
此の文書が「秘書」と題して密かに書き残されていたのは、まさしくこの事件の不透明さが物語っているように思える。
永青文庫の「秘書」と、ここで引用している上妻文庫所載の「梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記」には随分違いが見える。
其の部分に付いては「秘書」を引用して( )書にて補足することとする。

これは肥後国二分割案(本家40万石・宇土支藩14万石)の話が宇土へもたらされたため、家老の福地平左衛門が急ぎ江戸に上り若い藩主を諌めた処、立腹した藩主により殺害されたというものである。

「梅原丹七」の項にあるように、酒井雅楽頭は随分宇土支藩に力入れをしていたらしい。娘婿とも考えていたらしい。
綱利に旧知のまま54万石が与えられたのは、この事件が原因しているように考えられる。
丹後守が忠興の養女・三(源立院)を正室に迎えるのはこの直後かと思われる。
 

宇土丹後守様御
手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国
御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形手遣
出来寄之由早打飛脚を以宇土到来 彼御家老を初
御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦
至極歓候處 福地平左衛門ハ扨々是ハ大切至極之出来ニ而
御家之滅亡此節ニ極り候程次第ニて御本家ニも可被

為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届千万拙者直ニ
(江戸江罷越身命を差上可奉諫とて直ニ打立極々早打ニて十三日四日振ニも江戸へ着候由 左候て小屋ニ不寄直ニ御館え罷出御目見を願 御直ニ
奉諫之由曽て御承引無之小屋ニ引込居候様ニ
被仰付候ニ付不得止引退ニ翌日尚又出勤押而御目見
奉願如前日強て御諫申上候処御立腹ニ而御手打
被仰付候由
   但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候
   人は剣術者名を失念兼々御意ニ叶御座候御側ニ罷在候
   由 其節も御差図ニ而右之浪人切候由初太刀は切損シ
   二刀ニ切留候由也
右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成
様ニと被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様
従 公儀江為召候ニ付而御出仕之御支度ニ而御式臺
迄御出被成候處平左衛門が亡霊切害被仰付候節之通ニ而
キツト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成御覧候而
忽御気絶候様ニ被為見 御出仕相止ミニ而其後御気分
不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ
如何して式部殿被成御聞候歟 其節段々御手前之
御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も
有之由咄傳申候 左候而其以後御末家ゟ御代替ニは
奉對御本家隔意を企申間敷段 八代江誓紙を
被有御取候由承り傳候 勿論此儀は古老咄傳ニ而虚
實之儀は存不申候
   但福地屋敷其後他人居住仕事難成とて
   二十年(以前)迄は囲ニチンチク竹垣にして明屋敷ニ
   なり居よし

近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭候
ニは町在之者参詣被成御免由農商人も多参詣
仕よし此相殿ニ福地を御祝被成候由宇土町邊之下説
之由ニ而是以虚実は存不申事 月翁様之
御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名
と仰付福永平大夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名
被仰付両人共百五拾石宛ニ而新規ニ被召出候 福地
名字を二ツに分其跡被成御立候 思召之由ニ候事
丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸二本榎下屋
敷内ニ小社を建立霊神宮と崇申候 宇土ニは
無之候 祭日六月三日也

福地之名跡壱人ハ柴崎勘左衛門二男ニ而知(地)本■右衛門と
申候 江戸宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ
家老役也
  以上 

 


 

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