津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原節子→ガラシャ夫人・・?

2016-02-03 14:51:37 | オークション

               細川ガラシャ夫人 映画 撮影台本 1955年頃 熊谷久虎 原節子 未完

61年前という随分古い話だが「細川ガラシャ夫人」の映画化の話があったらしい。この間亡くなられた「原節子」さんの名前が見える。
残念ながら未完だとされるが、映画の台本というのも気になる。応札してみようかとも思ったがスタートが10,000円のようだから二の足を踏んでしまう。
マニアの方にお譲りしようと思うが・・・・・・・・・・・・・ちょっと気になる。 

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■寛文元年2月3日

2016-02-03 13:02:20 | 歴史

 7歳で肥後五十四万石の太守となった綱利が、19歳となった寛文元年直接政務を取ることを許され、肥後への初入部のお暇を頂戴したのが今日二月三日である。三月二十七日江戸を発し四月二十八日初入国する。その初入部は例のない華美な行列が仕立てられ、国元のひんしゅくを買い側近のHが処分(知行召上)を受けるほどであった。
長く江戸に在って必ずしもその生活ぶりは褒められたものではなく、生母清高院とともに家老・松井興長から強烈な諫言を受けている。
それでも興長は大いに喜びを表し十数匹の馬を綱利に献上したりしている。そんな興長も六月二十八日に死去する。
五ヶ月にも満たない九月十八日綱利は江戸へ向かう。
翌年正月には龍之口邸が類焼で焼亡する。又その翌年の六月には松平讃岐守養女と結婚する。将軍家に繋がるこの婚姻は、少なからず財政逼迫の中の細川家には試練が待ち受けることになる。
田中左兵衛(氏久)の諫言なども出てくるが、興長の死に伴い大きな重しがなくなり、また江戸の側近を重用するなど、綱利の専制がますます広がっていくことになる。

 

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■雪山老人書「子供手本文章之寫」 (ニ)

2016-02-03 07:25:57 | 史料

○明晩は百物語御申談之由一段之御事暮比より致参上候様被下忝致承知候 然處しゆびん徳利は御互用意不仕候而は難成則拙者有合之しゆびん御使江
 為持遣候 是は御互迄にて餘人には決而相成不申候

○今朝御口論之節十之進殿貴様御事をくそともおもわぬと被申候に付御立腹之由御尤に候 乍然此節迄はくそとおもはせ可申候間拙者被對御堪忍可被下候

○私先祖國常立尊と申儀祖父代より申傳候 古文眞實にては系圖分りかね申候間御宅御所持之ひらかな盛衰記少之間御借用申度候

○拙者方は御存知之通男子無之娘儀は至極之しこふつにて色黒くたくましき生付にて御座候間元服いたさせ男子に仕立申度存立居候 貴様豆の粉の飾に
 御座候間御相談申候

○夜前拙者方聟を取申候 今日致晝寝居候内鼻毛をはさみ遣申候處鼻の先三寸程はさみ切大難渋いたし候間吸膏薬少々拝領いたし度左様いヽ御影にて
 元之通吸出し可申と存候

○夜前より蟲せき申候 毒檀草のしほり汁餘程呑申得共せき止不申候 乍御無心御庭前之青ほふすき一坊主御所望申候

○昨日御出之節御晝寝被成候處纔に豆程成火を火箸にてはさみ御耳之内に入れ申候處不怪御立腹こんじよふわるき御仁物にて御座候 是程屁喰同士御
 中夫式之儀迄ケ様に六ヶ敷被仰聞候而は甚行當申候

○夜前は乍毎忝存候 扨歸懸殊の外黒き獣を見申候 慥に山猫共にては無之候哉御用心尤に候 今晩より夜咄に参上之儀はいやにて御座候

○拙者御存之通月代剃刀申候事至て嫌にて御座候に付げし/\にねふり剥せ申度兼て所存に候處率先刻貴宅はんどふ邊にて両三疋見受申候間取に上
 申候拝受いたし度候 

 

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