津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

PCの修復を完了しました

2011-01-23 20:43:06 | 歴史

 息子から古いPCをもらいHDを入れ替え、テストを繰り返すこと約6時間、ようやく修復完了しました。HDを移し変えれば簡単に起動するものと思っていましたが、そうは行かないのですね・・・息子の手を借りなければお手上げの状態でしたが、有難いことに1円のお金を使うことなく修復に至り、大変儲けた感じがしています。いささか疲れました。

 明日から平常通り、いろいろ情報を発信していこうと思っています。
ご迷惑をお掛けしました。

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Q&A 54万石の軍役

2011-01-22 23:19:35 | 歴史

 肥後54万石の軍役についてのご質問があったので、手元の資料からお答えします。

 【軍役】武士が主君に対して負う軍事上の負担。所領・俸禄に応じた部下と武器とを持つこ
     とが義務づけられた。

 【細川家の軍役】
     軍役11.750人、内騎馬890騎、弓340張、鉄砲1.330挺、槍370本、旗120りゅう。
 【家臣】知行取り、切米、扶持方取りのいわゆる家禄を受けている人数は6,500~7,000余人といわれる。
     これらの人が家族や親族等を伴ってこの数を満たした。

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PCがこわれました・・・

2011-01-22 14:48:27 | 徒然

 一昨日息子のPC(MAC)の不具合で博多まで出かけました。片道120キロ、いつもは高速を利用するのですが、今回はのんびりと国道3号線で往復し、変貌をとげつつある途中の街々の景色を楽しんできました。

 帰宅してPCに電源を入れると、今度は私のPCが立ち上りません。いろいろチェックしましたがアウトです。電源部が壊れたみたいで、どうやら買い換えないと仕方が無い状況になりました。まずは息子の古い機械に接続したのですが、なんとも使い勝手が悪く往生しています。
と言うわけで昨日はお休みと相成りました。

 買い換えるとなると、ああしたい、こうしたいがいろいろあって思案投げ首、新しいPCで正常に戻るには数日かかりそうです。こわれたPCのデータ―を取り出すことも頭の痛いことです。
しばらくはご迷惑をお掛けしますが、お許しください。

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加賀乙彦著を選ぶ

2011-01-20 08:37:33 | 書籍・読書
  高山右近
  加賀 乙彦
  講談社

     高山右近が忠興に宛てた決別の状がある。
     マニラに流されてしばらく後、右近は彼地で亡くなった。
     別れの直前の再び相見えることの出来ない境遇でのその文章は涙を誘う名文である。

     高山右近については種々の著作が見られるが、加賀乙彦を読んでみようと思い立った。
     ガラシャがどのような形で登場するのかが、ちょっと気になっての事である。

                    

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田端泰子著「細川ガラシャ」

2011-01-19 16:13:49 | 書籍・読書
細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)
    田端 泰子
    ミネルヴァ書房

【本の内容】
細川ガラシャ(一五六三~一六〇〇)。細川忠興正室。明智玉子は、実父光秀が起こした本能寺の変に際して山中に幽閉され、赦免された後にはキリスト教への信仰に目覚めてガラシャの洗礼名を受け、石田三成らが挙兵した際には人質となるのを避けるために自ら命を絶つという、劇的な生涯を送った。運命に翻弄されつつも信念を貫いた女性は、激動の戦国の世をどのように見たのだろうか。

【目次】
第1章 明智光秀の娘
第2章 織田信長の兄弟姉妹・子女の配置
第3章 信長と光秀・藤孝
第4章 本能寺の変とその後の明智氏・細川氏
第5章 忠興と玉子の婚姻
第6章 丹後時代の玉子と忠興
第7章 秀吉時代の玉子と忠興
第8章 天正末年から文禄初年の細川家
第9章 豊臣秀次事件の波紋
第10章 関ケ原合戦と玉子の最期
終章 苦難の中の花の一生

【著者】
田端 泰子
1941年神戸市生まれ。京都大学大学院文学研究科修了。京都大学文学博士。
現在、京都橘大学学長。専攻は日本中世史・日本女性史 
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「細川ガラシャの最後をめぐって」にそなえて

2011-01-19 12:53:43 | 歴史

熊本県立美術館では、 講座 細川コレクション⑤ 「細川ガラシャの最後をめぐって」が下記要領で催される。

  ・日時:平成23年2月12日(土)13:30~15:00
  ・場所:熊本県立美術館・本館講堂
  ・講師:東京大学史料編纂所助教 金子 拓 氏

これは是非拝聴したいと、その日が来るのを待ち遠しく感じているところである。
その日に備えていろいろ資料を乱読をしているが、その一端をご披露しておきたい。

■霜女覚書
■小須賀覚書
   http://www.shinshindoh.com/gracia.htm

   「霜女覚書」は現在ではいろんな著書でその全文を見ることが出来る。
   上記アドレスは当サイトのものであるが、昭和5年1月20日山田聖天堂発行本による
   日本基督教会宣教教師:山本秀煌氏の著「細川公(ママ)爵家の先祖忠興夫人の信仰
   美談」にあるものをご紹介している。
   あわせて「小須賀覚書」も掲載されているため、山本秀煌氏の著の全文をお読みいた
   
だきたい。

■細川家譜--細川忠興譜 (該当項抜粋)
   当ブログ 2010-04-01 の 「細川忠興譜・・10」を参照されたし

■小笠原少齋家「先祖附」 
   該当項を下記にご紹介する。

   幽齋様田邊御篭城之刻 忠興様之 御前様者大坂御屋敷江被成御座候處
   御人少ニ御座候故少齋儀御頼ニ成間大坂江罷越候様ニと 幽齋様依 御意
   罷越申候於彼地 御前様江少齋申上候者只今之内何方江も被遊御引退可
   然旨左候ハヽ何れも申合時分も御供可仕申上候處 御前様江者可被遊御生
   害 思召之旨段々少齋江被成御意御介錯仕上候様ニと御事ニ付 御意之趣
   至極奉感心候御介錯仕時分も御供可仕之旨申上候得共殊之外被遊 御満
   悦被成御生害候右之節少齋申上候者此長刀者御婚禮之砌被遊御持候猶又
   只今奉懸 御目由申上 御女儀之御事ニ付御同間を奉憚右長刀ニ而際越御
   介錯仕左候而御遺骸其外追腹仕候者共之死骸跡ニ而相知不申様ニと河喜
   多石見抔申談御屋敷之長押ことに焔焇を入置火をかけ少齋儀も早速追腹仕
   候
   

   項の最後に 其節之首尾委細申上ニ不及候 とあるが、短い文章の中に真実が数多く
   語られている。

■糸女覚え書
   
芥川龍之介の著作である。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/58_14823.html
   「霜女覚書」を典拠としパロディ化された作品だが、私は特段の嫌悪感もなく良く出来た
   作品だと評価している。
   この作品については勝倉壽一氏の論考 「糸女覚書」の構図 が大変興味深い。
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/103/1/5-422.pdf#search='「糸女覚書」の構図'

■その他
   細川護貞著   魚雁集
   上総英郎編   細川ガラシャのすべて
   三浦綾子著   細川ガラシャ夫人
   司馬良太郎著 胡桃と酒
   永井路子著   朱なる十字架
   生方たつゑ著  細川ガラシャ

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寒がりの吾大寒の生まれ也

2011-01-19 08:44:44 | 徒然

 明日は大寒、私が生まれた昭和17年の東京の今日(1月19日)も随分寒かったようだ。本日60代最後の誕生日を迎えた。

 「めでたさも中ばかり」で、来年はいよいよ70代に突入かと思うと、いささか呆然としてしまうが、こればかりは致し方のないことである。年相応に生きるしかないが、今年は60代を多いに意識して動き回ろうと思っている。75歳くらいまでは何とか「歴史狂い」現役をつづけることが念願である。

    ■上田久兵衛資料のPDF化とサイトUP
    ■永青文庫蔵・先祖附の完全読破
    ■新・肥後細川藩侍帳の整備

 これだけは何としても頑張らなければならない。まずは「健康第一」
 

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老前整理

2011-01-18 09:29:14 | 徒然

 朝食をとりながらTVをみていたら、「老前整理」という言葉が出てきた。
恥ずかしながらまったく知らなかったが、ぐぐってみると結構使われている言葉らしい。
それはともかくとして、ごもっともと思わせる考え方では在る。
           http://www.kurasikaru.com/index.html

 最近、「あれは何処に行った?」と聞くと、妻から「捨てようと言って捨てたでしょう!!」と返事が返ってくる。すっかり忘れている。余り物に執着しないたちだから、結構物を処分して後悔することが多い。ある本を処分して今になって後悔し、「日本の古本屋」で懸命に探しているが、これなどはまさに痛恨事である。

 このサイトを立ち上げたのは、「侍帳」の原稿がダンボール三箱にもなり、それを見ることさえ困難になり、某氏の「これはあんたのマスターベーション、あんたが死ねばただの紙くず」の一言がショックでデータベース化しようと思ったのがスタートである。そのダンボール三箱の原稿もも処分してしまい、今ではいささかの悔いが残っているのだが・・・・
年をとっても本と資料は増加の一途である。こればかりは「老前整理」とはまいらない。
貴重な資料はスキャンしてPDF化して公開しようと思ったりしているが、わが安物の電脳機器ではスキャンも一枚一枚の手仕事で、なんとも歯がゆくてしょうがない。せめて資料の所在をデータベース化しようと最近思い立ったのだが、これも私の単なるマスターベーションかもしれない。

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十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録

2011-01-17 16:23:13 | 徒然

 昨日今日と熊本は氷点下の朝を迎えました。昼も気温が上がらず、相変わらず古傷が痛みます。何もする気がせず、今日はひたすらPCでいろいろ検索して過ごしています。
熊本大学の、「十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録」の検索システムで数時間を過ごし、いろいろ面白いデータに遭遇しました。
        http://kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp/preface.html

どういうキーワードを打ち込むかが問題ですね。どう使いこなすかが問題ですが、多いに利用することがこういうシステムを構築された事に対する励ましと成るのだと思います。

いろいろサーフィンしていると、結構目新しい情報にも出会いました。
まだまだ沢山の隠れた史料が存在していることが伺え、一つでも多くの史料を目にしたいものだと熱望しています。

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史料所在・九州大学デジタルアーカイブス

2011-01-17 09:04:22 | memo

■宇土細川家文書
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/search/result_list.html?selected_table=bunkashi.udohosokawa

■蒙古襲来絵詞
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html

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加藤重徳の妹

2011-01-16 21:48:32 | 歴史

 加藤重徳なる人物がある。荒木村重により有岡城内の牢に幽閉された黒田如水をなにかと面倒を見、如水はその恩に報いて重徳の二男三左衛門を養子とした。黒田八虎として勇名をはせ、のち筑前美奈木に居館を構え16,000石を領して大老を務め明治に至った。
重徳の嫡男加藤吉成も後父ともども黒田氏に仕え、子孫も代々藩中で重きをなした。幕末の加藤司書は勤皇派として知られたが、維新の僅か二年前「乙丑の獄」で粛清されて無念の死を迎えた。その数180名とも言われ、筑前黒田家は完全に明治維新の蚊帳の外に置かれた。

 前置きが長くなったが、この重徳を遠祖とする三奈木黒田家の系図を見ると、驚くべきことが書かれてある。それは重徳の妹なる女性を、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」だとし、「越中守忠興母也」としていることである。

 信じがたいことではあるが、黒田家大老の家の系図であり、その出所も確かなものであるため、わたしもいささか動転している。「越中守忠興母也」はないとしても、側室としてありえたかもしれないとも考えられる。

 加藤重徳は伊丹左衛門大夫の初名が物語るように、伊丹氏である。その室は伊丹安藝守親保女である。嫡男は細川忠興の愛妾・郡氏(松の丸殿)の父郡宗保である。また忠興が黒田家と争うようにして召しだした黒田(伊丹)蔵人の室は宗保の妹である。(蔵人の家系は途絶えているが、黒田家系図によると継嗣が若くしてなくなったことにより絶家したようだ)

 これらの符合は頭書の、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」との関係を匂わせるものではないのか・・・・・大変興味が尽きない。

 何らかの情報をお持ちの方は、是非ともお教えをいただきたい。

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熊本城乾(いぬい)櫓

2011-01-16 10:04:06 | 歴史

 忠利公の息女竹姫は有吉頼母佐英長に嫁いでいる。
英長は有吉本家四代の有吉英貴の嫡男である。英貴は兄興道(三代)が36歳という若さでなくなったため忠興の命により本家を相続した。興道の子貞之が若年であったことも関係している。貞之は英貴の長女を娶り本家を相続(五代)した。

 英貴嫡男の英長は、正保二年父英貴の死去に伴い跡式拝領、10歳であった。
承応二年十一月家老職に就くが寛文二年五月京都で亡くなった。26歳の若さである。
殉死者が二人あったという。重複するがその室が忠利女竹姫である。

佐々木有吉------有吉立言 ---+
                     |
 +-----------------------+
 |   武蔵守
 +---有吉立行---+--興道----+---貞之・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
 |           |       |
 +---芦九太夫   |       +---勝之 絶家
             |
             |       +--●大木織部嫁---○
             |       |             ↓
             +--英貴---+---英長========直常・・・→ 有吉分家・英貴流
             |       |    ∥
             | 細川忠利-----竹姫
             |       |
             |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
             | 三女
             +---●
                 ∥-------- +--有吉助之進 有吉家士
          冨田与兵衛重冬     |
                         +--●(松野亀右衛門・嫁)
                         |                 二男
                         +--●(堀新五右衛門・嫁)---藤松
                         |                   ↓
                         +--戸田吉十郎 有吉家士
                         |
                         +--有吉雅楽 有吉英貴養子となる
                         | 光尚殉死           堀新五左衛門二男藤松
                         +--冨田小左衛門====小左衛門・・・・・→冨田家

 二の丸から熊本城をのぞむと左端に三層の乾櫓が在る。
この櫓を、別名「長寿院様御丸三階御矢蔵」と呼んだという。北大手門から入ると右手にあたる一帯で米倉があったとされる場所(西出丸)の隅櫓である。熊本市文化財専門相談員の富田紘一氏のお話によると、寛文6年にはそう読んでいたとされるから、有吉英長が亡くなった後この場所に屋敷があり、余生を過ごされたのであろう。

 竹姫は寛永14年3月18日生まれ(母・姓氏不詳)、元禄7年11月24日没、年58。
法号長壽院心空宗本。島崎霊樹庵に葬る。

 英長が元気であれば、有吉本家を相続していたのではないかと思っている。
英貴家は英長の姉たつ(大木織部兼久室)の二男・直常が継ぎ(初代)、明治に至っている。

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推敲の果ての雑句

2011-01-15 08:46:28 | 俳句

  昨年末からの駄作を推敲してみました。 

            陽の恵み背にうたた寝やひなたぼこ
        
            森閑と木立の宮の淑気かな

            叶うならこの一つ事初詣

            短夜や目の疲れしに本を伏せ

            いく川の面に湯気立つ今朝の寒

            爪そろえささやかな新春迎えけり

            人の流れにわが身を任す師走かな

            PCを閉じれば静けき闇は寒

  今年もこんな具合で、性懲りもなく駄作をご披露したいと思います。 

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高祖父・上田休(久兵衛)情報

2011-01-14 08:49:32 | 歴史

 福岡にお住まいのT・Y様から、過日上田休に関する情報をお寄せいただいた。福岡の古書店・葦書房で本を購入された折、半年ほど前に発行された「文献目録」も入手された。
この中に、「上田休応接咄ノ次第概略書」(明治10年6月3日)という資料が記載されていたというご連絡である。
 
 氏のお話によると「文献目録の紹介によれば、筆者は細川侯爵家家扶監事を務めた樋口定という人物で、西南戦争時に長崎に避難していた細川護久公の明治政府に対する忠誠を示すための弁明書の下書きではないか、ということです」とある。
ちなみに値段は85,000円ということであったが、早速葦書房にTELを入れてみた。
なんとこの高価なものがすでに売れていた。お聞きもしなかったが、大学かどこかの研究用であろう。 

上記概略書の一部が以下のように紹介されている。(T・Y様のメールから)
「三月五日上田休砂取ノ旧知事ノ邸江来ル、上田ハ旧知事ノ出崎ノ事迄モ承知ニテ来候ニ付私言ク旧知事ノ様子ハ戦争始ルノ日ニ報知アレトモ知セ届兼候事ヲ述ル。上田言旧知事ノ崎陽ニ滞ニテ此末如何成ル運ナラント尋候ニ付、私言出張向ノ事情難斗細川休焉モ出崎候得ハ必様子ハ不遠内報知モアラント申述、尚上田言此前上京可致事ヲ咄置候処旧知事ハ出崎モ有之上京ハ止メ川尻ハ因モ有之……」

樋口定については、川尻町史の「上田久兵衛」項に次のような記事があった。
「四月初旬川尻に於ける薩軍勢可ならざるや休其士気の沮喪せんことを慮り陽に書を其の友人樋口定に送りて曰く
  最早今日に至りては事已に切迫に及びたれば惣敗軍と思ひしに豈圖らん薩兵の後軍大
  凡三千人許り人吉を発し明六日八代に到着し、而して当地屯在の官軍を挟撃するの都
  合により我兵も俄に色を立直し、小生抔熬豆に花愁眉を開かんとするの感あり」

「概略書」が提出された時期上田休は獄中にある。旧主に対しても何らかの調べがあったのであろう。その弁明書が上記の「上田休応接咄ノ次第概略書」だと考えられる。
 
 何とか詳細を知る術はないかと思案している。T・Y様のご好意に感謝申し上げる。

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隣同士

2011-01-13 13:49:12 | 徒然

 京都大徳寺の細川家墓所・高桐院の隣に、玉林院がある。
     http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/img/map.pdf      
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9E%97%E9%99%A2
 ここは豪商・鴻池家の菩提寺だそうだ。細川重賢の代、破産寸前の細川家は大奉行堀平太左衛門が、鴻池家に借金の申し入れをしているが、無碍もなく断られている。そのことが宝暦の改革の発端と考えても良いのかもしれない。
金利の安い代わりの金主を得て、改革は急速に進んでいく。鴻池の借金も、更なる申し入れを断ったことにより返されていくという、皮肉な結果となった。

 こんな逸話が在る。
遊んで暮すってのは出来ることじゃーないよ。昔大阪の鴻池の若旦那が無駄づかいをたしなめられた。その時のセリフがいい。「若旦那、そんなにお金をつかつてしまうと、今に、三井や住友のように商売しなきゃならなくなるよ。 (永六輔著・明治からの伝言)

 笑わせてくれる話だが、細川家も随分お手伝いをしたということになる。
この玉林院には、忠利の子にして妙解寺住職から大徳寺に入院した、不白大和尚宗玄が葬られている。いろいろ因縁めいたことではある。

 

 

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