津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

豊家復活

2010-05-14 16:00:15 | 徒然
 豊臣秀吉が亡くなった跡柩は密かに運び出されて、阿弥陀ケ峯の山頂に埋葬された(慶長3年8月13日)。秀吉は神となり神廟が建立され、膨大な広さの豊国神社が造営された。しかし秀吉の廟所は豊臣家の滅亡と共に家康の手により改葬を命じられ、豊国明神の神号も剥奪された。神社も破却が命じられた。(家康もちょっとやり過ぎだ)

 時代は繰り返す。それは徳川家の滅亡に依ってである。明治元年閏四月明治天皇は豊国神社の再興の沙汰を下している。その年の八月二百五十年ぶりに祭祀が官祭として執り行われた。しかしながら神社再建は難航し、京都方広寺大仏殿跡に豊国神社が完成したのは明治十三年のことである。一方大阪に於いても建立の動きが京都と対立する形で進み、別社として建立された。場所ハ中之島一丁目の旧熊本藩邸の地であり、京都本社に遅れること十三日をして還宮祭が執り行われた。ところが肝心の廟は足守藩・日出藩木下家により僅かに垣を廻したのみで放置された。漸く廟墓が整備されたのは明治三十一年三月のことである。秀吉歿後三百年の年であった。
               (参考:津田三郎著「秀吉英雄伝説の軌跡」から)

 細川家譜を読むと明治元年五月十五日、細川護美は菊池武時や加藤清正の名を揚げて顕彰を建言している。現在の菊池神社・加藤神社(錦神社)だが両社の由緒を見ると、たしかに護美の建言によってであると記されている。護美の建言の元は河上彦齋の建白によるものであるとも伝えられる。菊池氏も加藤氏もまさか護美からこのように称えられるとは思いも依らなかったであろう。

 豊国神社も、菊池・加藤神社もご一新あっての今日である。
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