津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

幽齋の葬儀

2009-08-15 17:28:00 | 歴史
 細川幽齋は、慶長十五年八月廿日京都三条車屋町の館において薨じた。所縁深い南禅寺の北門前で荼毘に付され、遺骨は天授庵に埋葬された。分骨された遺骨は圭長老に奉持され室・麝香(光壽院)や忠興等に護られて豊前小倉に下向した。京都から200名にも成ろうかとする僧侶が小倉の地に参着した。葬礼は九月十八日午の上刻と定められた。

 惣奉行ハ長岡式部興長・沢村大学吉重・益田蔵人正重、御火屋廻之警固、神西与三
 右衛門・牧丞大夫なり、兼日此事相聞へ候間、御分国の出家自他宗に寄らす、宇佐の
 社僧の外は一人も不残参候、其外遠境の寺院、老若男女夥敷相集候、御規式之所は
 野上の原 東小倉門司口 とて、方八丁斗広き野辺あるを垣結廻し、北ニ龕堂を建、南ニ火
 屋あり、宝形作り桧皮葺ニしつらひ、九輪を簿(ママ)にてみかき、柱は純子を以て巻き、軒
 の水引は紫空色の絹を用、幕垣を卒都婆頭ニ切て貫を通し、四方ニ四ッの華美を建て、
 紺地に金字の額をかけ、すへて方四十九間也、火屋と龕堂前の間百二十間を隔て、右
 之中間に当つて六体の地蔵を画たる御影の前に香花灯明を備ふ、龕堂の前に高き机を
 居へ、紫の打敷をひろけて御位牌、香炉、香合、茶筒作り、花蝋燭、色々の菓子を備へ、
 垣の内ハ不残敷物をしき、垣の外は蝋燭を並へ立て、辻堅の諸士一間ニ一人宛各鑓を
 持せ、小姓一人を召供し、皆白キ小袖二上下を着し、股立を取、其以下は会紋の羽織を
 着し、手毎ニ杖を持、長岡式部少輔、沢村大学介、益田蔵人三人肩を双へ埒の内を廻る、
 諸宗の出家其外の諷経夫々の法位に随ひ、座配の札を立させらる、是に随ふて、小士
 六人隙なく内外を巡見して行儀を正す、西の方に仮屋を建て、御女中の御座所とし、其
 外ニ諸用を便する下小屋あり、拝見の者は辻堅より一間はかり退ひて、一面に並ひ居候、
 辰の上刻、彦山の座主山伏五百はかり引連、夥敷ほらを吹立、足早ニ通り申さる、漸々
 午の刻に至り、一番ニ烏帽子白丁を着たる者六人ニ手、本篝をかたげ来る、次に大なる
 香炉をわくに入行て隙なく沈香を割くべ、其次に平生御秘蔵被成候月毛の駒、額に銀の
 角取紙を当、舌を結ひ、白き手綱をゑりかけ、木地の尻がいをかけ、力革を腹帯にくゝり
 付、無紋の鞍鐙を懸、白き馬絹を以惣体をつゝミ、沓を打、尻綱を付て舎人四人にて是を
 率出立ハ、髪を乱し額にとぼうをあて、白き素袍四■袴短刀を指、わらちをはく、其次に弓
 鑓長刀挟箱杖沓傘袋太刀刀御骨桶、何れも白き絹にて包、烏帽子白丁の者持之、御位
 牌は玄蕃殿御息七歳なるを肩に乗せ申、名代の侍持之、御龕は四方作り、五色を以彩
 色、金のかな物をつかひ、所々を金襴にて包ミ、玉の瓔珞を下ヶ、風鈴をかくる、扨旗をさ
 し、蝋燭をともし、天蓋を差かけ、花を散し、役者の僧二行に列り、仏具を携へ、太鼓小鼓
 を鳴し、鉦鐃鉢を撞、錀を打、経を読、于時村雨降て、無程晴、原の気色静に風冷也、善
 の綱に付所の大小名五十余人、綱先ハ松井佐渡守、綱本は大塚源左衛門入道、龕の後
 ハ長岡中務大輔、士二十四人を被連、御女中の輿七十二挺、先達の女房九十七人、何
 れも白き絹を被き、其次ニ尼四人黒衣を着し、数珠を爪繰、杖にすがる、すべて行列の左
 右を堅固る士五六百程也、忠興君ハ御冠、鈍色の御束帯、無紋の御太刀、青地の中啓
 を御持被成、御鞋也、御愁傷の御中、御粧ひ人に超へ御威光に感して、皆人信心仕候
 御供の禅門三十四人、其外烏帽子素襖を着たる士雑兵共ニ千斗り也、御龕龕堂に居り
 候へハ、机に向ふて喪主念誦維那あり、同少間を置て、施主おハしまし候、左之方に堂
 頭和尚あり、起龕鎖龕の行ひ終り、火屋ニ移り、三度の行道納り候へハ、捴見院玉甫和
 尚ハ牌前ニ至り、座具をのべ、香を焼、引導の規式あり、奠茶は南禅寺、奠湯は天竜
 寺也、施主御焼香事済、諷経の諸宗、家/\の勤めをなし、御規式相済候

 
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