津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

圓通院殿

2009-08-20 15:46:26 | 歴史
   圓通院殿江被遣御知行所付之御目録
現高五百貮拾六石八斗四升八合七夕五才  八代郡
 一 高五百六十八石五斗四升七夕       長田村
現高七百三拾九石貮斗五升三合四夕壹才  同郡
 一 高九百三拾壹石四斗五升九合三夕    興善寺村

 現高千貮百六拾六石壹斗弐合壹夕六才
  高合千五百石
     以上
    正保三年九月十九日御印  沖津作大夫 判印
                      堀江勘兵衛   同
                      浅山修理大夫 同

 圓通院殿とは細川忠興(三齋)の側室清田氏である。「清田主計鎮乗入道素閑女幾知、寛文三年癸卯七月二日熊本ニ於テ卒ス、年六十七歳、法号圓通院玉宗雲」 宇土細川家祖・細川立孝並びに細川刑部家祖・細川興孝の生母である。上の文書は日付から判るように、三齋の死(正保二年十二月)後に光尚から発せられたものである。宇土細川家は同年七月廿九日孫の行孝が宇土藩の立藩が許されて初代藩主となっている。忠興の養女・佐舞(於三とも)が行孝の室となり、佐舞の叔母忠興側室立法院も宇土に入ったと思われる。圓通院は細川興孝を頼ったと見られ、その墓所は刑部家の慈眼庵(下立田村龍田山泰勝寺中)にある。忠興が溺愛してやまなかった立孝、疎んじられて早々に隠居した興孝、二人の生母である圓通院が刑部家で晩年を過したことを考えると、圓通院の苦しい心持が判るような気がする。尚、「真源院様(光尚)御代御侍名附」によると、御さんさま・千五百石、立保院北丸殿・五百石、円通院様・千五百石とある。
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