津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お小言

2008-05-16 17:43:54 | 熊本
 「節操のない郷土史家」と書いたら、悪友が携帯に電話してきた。

「お前、あれはまずいぞ」
「何が・?」
「節操のない郷土史家ってやつだ」
「現実そんな人がいるから、仕方ないだろう」
「お前もそうだろうが」
「冗談じゃない、おれは単なる歴史道楽人だ」
「馬鹿かお前は、これだけのサイトを張ってると、同じようなもんだぞ」
「しかし、おれは講釈師のようなことはしねーよ」
「とにかくあの文章のフレーズをはずせ、言うことを聞け」
「ご忠告は受けたまわっておく」
「モッコス野郎めが・・・」

 大筋こんな具合の会話だ。悪友は「お前は小楠は嫌いか」ときく。
そんなつもりは一切ない。何年も細川藩について勉強してくると、綱利や清高院を批判したくなるし、吉村文右衛門の上書にうなずきもする。田添源次郎の地引合について、僅かの隠田を民間の余沢だという言い分にも考えさせられる。上妻文庫に残るいろんな上書についても、読み下そうと試みたが所詮浅学、改めて活字化されたもので大意を得た。一々ご尤ものお説と理解している。「横井小楠」については数冊の本も読んだし、ブログ「細川藩MUDA智蔵」の「神風連・別掲--横井小楠」に煽られて、今般未読の圭室氏の著書にチャレンジした。いくつかの論文も読んだ。曽祖父が、士道忘却事件に関連する「吉田傳太復仇録」を書き残したのは役職上の事だ。上田久兵衛が「学校党」の人間であろうが、横井小楠を評価するに何の問題があるというのか。
 
 口下手な私は、思いを100%伝える事が出来ないもどかしさを感じながら、電話を切った。しかし圭室氏のあの表現にはどうしても納得できない。ただそれだけの事だ。
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講釈師見てきたような お説

2008-05-16 14:10:21 | 歴史
 圭室諦成著「横井小楠」を読んでいる。玄祖父・上田久兵衛などは、荒木精之氏に言わせれば学校党の主要人物らしい。いわゆる「公武合体」のお先棒を担いだと言うわけだ。処が圭室氏の、久兵衛をして「敬神党」とする考え方には同意しかねる。出来ればそのお説についてお話を承りたいところだ。
 横井小楠暗殺事件について、弾正台は大巡察古賀十郎を熊本へ派遣した。いわゆる偽書とされる「天道覚明論」の調査のためである。古賀は熊本に着くなり久兵衛を訪ねている。どのような話が成されたのか、当方に残る史料では現況確認が出来ないが、圭室氏は久兵衛が「巡察憤激急、攘夷家なり」と評したとしている。そして、「『天道覚明論』は、一読すればすぐそれが偽書とわかる稚拙にして愚劣きわまるもの。格調たかい小楠の著述に比すべくもない。」と続ける。

 「講釈師のお説」とは次の一文である。

「熊本における敬神党・尊攘党に、人間的誠実さとすぐれた学殖をもつ者がいなかった事を物語るものであろう。古賀が熊本において、とにかく小楠を不敬漢とするデマをつくりあげた。これに協力した熊本人は敬神党の人たち、すなわち上田久兵衛・小橋恒蔵・阿蘇惟治・阿蘇惟敦・佐伯関之助・河上彦斎(高田源兵衛・鶴崎)・照幡列之助(轟武兵衛・在京)であった。ちなみに、熊本反動派の小楠非難は京都でも有名で、事件直後など、小楠を暗殺したのは肥後人であろうという噂さえ流れていた。」

 これでは節操のない郷土史家の言い分と同じではないか。
私は「横井小楠」を深く理解すべくこの著を読んでいるが、唯一この部分についてはなんとも同意しかねる。名誉毀損の話である。広くご意見を賜りたい。

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姫様の輿入れ

2008-05-16 12:20:19 | 徒然
 我が家の二代目と三代目が夫々、綱利の姫様の輿入れに当たって関係した。

 一人は光姫「元禄二年巳二月十五日より光姫様御祝言ニ付而、京都江戸ニ而致出来候、御道具支配人被仰付江戸へ被残置候(以下略)」とある。
光姫は寛文八年戌申正月十九日江戸に生まれている。酒井左衛門尉忠眞に嫁いだが元禄九年丙子十一月十六日に亡くなっている。年二十九歳。生母は綱利正室(松平讃岐守頼重養女・実ハ水戸中納言頼房息女) 僅か九年の結婚生活である。

 今一人は初姫「宝永二年酉十一月、初姫様松平采女正様江御輿入之御供被仰付被相勤(以下略)」とある。
初姫は綱利の外孫(松平志摩守直丘・女、元禄三年二月廿七日生まれ)であるが、生母楊(綱利女)が若くして亡くなったので養女とした。宝永三年十一月三十日婚儀、後離別、寛延二年七月三十日江戸で亡くなった。年六十歳。楊の生母も又綱利正室である。(婚儀の日取りについての食い違いがある)

 綱利の正室の出自の故か、お相手は徳川縁故の大名である。これらの縁組に掛かった費用は膨大であったという。細川家の金欠病の一因ともなっている。
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