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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

様変わり

2008-05-08 16:27:50 | 熊本
 そろそろ熊本城へ出かけようと思うが、まだごった返しているらしい。気はそぞろなのだが人が多いところは大の苦手で、今しばらくの辛抱かと思っている。
   www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=650
 「藩校サミット」が開催される6月21日までには、どうしても観ておかなければならないが・・

 よく写真を撮っていた、市役所周辺からの熊本城の様子が様変わりをしてしまった。大小天守に本丸御殿が重なってしまうのだ。「他力本願」な私は、写真好きな皆さんがその内に、ベストポジションを見つけてくれるだろうと心待ちしている。

 明和六年の御城内絵図を見ると、本丸御殿は今回完成したものよりもまだ大きかった事が分かる。今回の建物は清正時代のものだろうが、いろんな条件を考えるとこれが限度だろう。かつて、着物で出かければ入城無料という催しがあったらしいが、いろんなアイディアで楽しませて欲しいものだ。桜の馬場に江戸村を作るという話しがあったが、何時になるのだろうか・・・熊本人の「熱しやすく冷めやすい」気質も、この辺りで様変わりさせて、この賑わいが一過性のものにならないよう、熊本城を大事にしていきたいものだ。

 
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細川家家臣・加来氏

2008-05-08 08:05:36 | 歴史
 「大分の歴史辞典」という秀逸のサイトがある。「か」の項に「賀来荘 ( かくのしょう)由原宮膝下の荘園」があり、細川家家臣加来氏の出自は、この辺りであろうことが推察される。
        www.e-obs.com/heo/heohome.htm 「大分の歴史辞典」 
 現在の細川家の血脈をたどると宇土細川家に至るが、忠興側室立法院や養女お三(佐舞・宇土細川家初代行孝室・源立院)が共に加来氏である事に気づく。加来兵右衛門という人が在った。加来氏は旧姓大神氏、大友家家臣であったが大友没落後、豊前にて細川家家臣となった。四人の子が在った。

  兵右衛門---・---三右衛門(八代分領解体後本藩家臣)
         |
          ・---三七(若死)---------お三(立法院養育・忠興養女--行孝室)
         |
          ・---いせ(立法院・忠興側室北の丸殿)
         |
          ・---佐左衛門(八代分領解体後本藩家臣) 
                       (舟田義輔氏・宇土細川支藩成立の前後より引用)

 綿孝輯録・巻六二に次のような記事がある。「一書、宮松殿及ひ立法院殿をも宇土ニ移置と有、考ニ立法院は加来兵右衛門娘なり、豊前以来化粧田五百石三斎君より被下置、御懇之儀ハ加来が家記に詳也、三斎君御養女ニ被成置たるおさん殿も加来か娘也、後行孝主の室也、三斎君御逝去之砌も御一所八代ニ御座候而、暫く小川に御住居、無程宇土ニ被移候なるへし」

 又、お三様を佐左衛門女とし、母を立法院としている物があるが、これは如何であろうか。

 正保二年(1645)五月細川立孝が亡くなり、跡を追うように十二月三齋が亡くなった。立孝の遺児宮松は当時九歳である。宮松について「御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許被思召御隠便也」と、三齋の様子が井門家文書「行孝公御一代之覚」に見える。三齋の死に伴い八代分領は解体され、光尚の意により宇土支藩が創立され行孝(宮松)が初代藩主となるのである。お三様と行孝の婚儀について私は史料を持ち得ない。細川本家の意向であったのか、三齋の意向であったのか・・何時の頃であったのか分からない。行孝より三つ年上の「お三様」は三齋の全ての遺品を受け継いでいる。そして行孝との婚儀をへて、それらは全て宇土細川家へもたらされた。行孝の三人の男子、三人の女子は全て「お三様」の子である。三代有孝---四代興生---五代興里---六代興文(興里弟)と続いた。興文女・埴が宗家治年に嫁ぎ、治年の跡宗家を継いだのが興文二男立礼(斉茲)である。「お三様(加来氏)」の血は現在も細川宗家並びに宇土細川家に脈々と受け継がれている。

 先の舟田義輔氏は、立法院、源立院を宇土細川家の名夫人と賞賛される。


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