■堀尾茂三郎の名前はこの「御侍帳(家紋付)」にしか登場しない名前である。読み間違えか、誤植ではないかと考えられる。
「堀尾恩次郎 (南東9-8)家」の5代・義三郎 大組附・九百石 「寛政五年二月(三拾挺副頭)~寛政五年六月 八代番頭」ではないか。
家紋は「六角に橘」及び「分銅」紋の二つである。
堀尾家は堀尾茂助吉晴の子孫である。磐倉寺境内の堀尾吉晴墓碑、香台を見ると「分銅」と「六つ目結」の紋が刻まれている。
■堀内喜左衛門は「堀内謙太 (南東9-15)家」(2)の 5代・彦蔵(喜左衛門)か
家紋は「加賀?梅鉢」肥陽諸士鑑に於いては「六曜」である。
■堀内三郁は「堀内三■(サンエキ)(南東56-2 医)家」(1)の7代目、代々医業を以て仕えた。
家紋は 肥陽諸士鑑に於いては「六曜」である。
■堀内伝右衛門は「堀内傳内(南東9-20)家」(3) の6代・佐八郎(傳右衛門)である。
初代・伝右衛門が赤穂義士の接待役を勤めて名高い。旦夕覚書など貴重な記録を書き残している。
家紋は「加賀?梅鉢」肥陽諸士鑑に於いては「六曜」である。
■堀内十三郎は「堀内卓爾(南東9-7)家」(6)の6代・左門太(十三郎)、芦北郡代などを勤めた。
家紋は「丸」 肥陽諸士鑑に於いては「丸」である。
■堀内半助は「堀内角平 (南東9-16)家」(4)の7代目である。 御近習御次御物頭列などを勤めた。
家紋の表示がないが、卓爾家と同様の意か?
■堀内坤次は「堀内軍蔵 (南東9-14)家」(5)の6代である。
堀内坤次 名は之弘、坤次と称す。食禄二百石。穿鑿頭、奉行職等を勤め、夙に勇壮
の名あり。又剣射の技に精しく騎法に熟す。文化六年八月四十七歳にして
江戸に没す。三田大増寺に葬り、遺髪を分ちて西岸寺に葬せり。
家紋は「子持ち丸」、肥陽諸士鑑においては「丸」である。
これら六家(■)は家祖を一にする一族である。
熊野別当・新宮城主27,000石→加藤清正臣・宇土城代
+--安房守氏善 熊本ニて没、宇土市三宝院に葬る
| 三盛
| 三郎兵衛 ‖-----+--三盛-------------------------→(三曎家)(1)
| 池田家家臣 同左 ‖--------+----女 |
+--半介------構之助--------妙庵 | +--喜左衛門--------------------→(謙太家)(2)
| |
| +--傳右衛門--------------------→(傳内家)(3) |
+----八右衛門--------------------------------→(角平家)(4)
|
+----角之允----------------------------------→(軍蔵家)(5)
|
+----文右衛門--------------------------------→(卓爾家)(6)
つまり三盛系の三家(三曎家・謙太家・傳内家)が「六曜」、その他の三家(角平家・軍蔵家・卓爾家)が「丸紋」であることが判る。
■堀田佐次郎は「堀田市衛 (南東9-11)家」の 6代・佐次郎(七郎右衛門)である。
家紋は「丸に立て木瓜」 「肥陽諸士鑑」に於いては隅切り角に木瓜
■堀田次右衛門は「堀田権十郎 (南東9-13)家」の5代または7代で特定できない。
家紋は同上 「肥陽諸士鑑」に於いても同上
■堀田佐左衛門は「堀田慎太郎(南東9-19)家」の 6代・佐左衛門(諸兵衛)である。
家紋は「平角に立て木瓜」 「肥陽諸士鑑」に於いても同左
■堀田金吾は「堀田九平太 (南東9-22)家」の7代で久武家からの養子である。
・明和六年七月十二日、久武権之助・仝金吾手討 宜敷トテ御褒詞(人を手討ちして褒詞を頂戴した珍しい事件である)
家紋は同上 「肥陽諸士鑑」に於いては隅切り角に木瓜
以上の堀田四氏(■)も一族である。私にもこの金吾の血がわずかながら流れている。
■波々伯部万八は「波々伯部操一(南東7-8)(南東5-61)家」の 9代目・万八(権右衛門)三百石 御使番である。
姓の読みは「ほうかべ」「ははかべ」などがあるようだが、細川藩に於いては「ほうかべ」ではないか。
家紋は「隅立て角に中陰丸に引両」
■細田政之丞は「細田七蔵(南東9-9)家」の5代目・寿平太(政之允・七蔵)とおもわれる。
細田氏は荒木村重の子孫である。
家紋は「中陰三つ地紙に二つ左巴」
荒木・細田氏については当ブログで何回もご紹介してきた。荒木攝津守村重子孫--熊本に於ける二つの流れ
■本庄源八は丹後以来の「本庄源八 (南東9-5)家」の 9代目・太次郎(太兵衛・源八)か。
本庄源八 名は正明、関流撃剣居合の師役なり。文化八年八月没す。年七十二。
家紋は「六つ鉄線」
■本庄次左衛門は丹後以来の「本庄源次 (南東9-25)家」の7代目か
家紋は「八段鞠挟み」
源次家は源八家の分家筋である。
■本間忠助は「本間寛太(南東53-36)家」の 7代目である。
本間忠助 名は素當、忠助と称す。藩に仕へ歩頭使番、江戸留守居役を勤む。食禄二百石。又和歌を善せり。
天保十二年正月八日没す。享年五十六。墓は横手北岡長国寺。
家紋は「丸輪に黒餅」「平隅入り角に本文字」
■星野貞八は「星野一十 (南東9-12)家」の6代目である。
家紋は「丸に柏」紋である。
■遠坂万助は丹後以来で田辺城籠城衆の「遠坂関内(南東10-1)家」の10代・萬助(関内)である。
文化十一年八月~文化十二年二月 留守居番頭
文化十二年二月~天保二年七月 番頭(初万助・文政三年二月改名)
文政六年九月~文政七年十月 鶴崎番頭
天保七年十一月(大組付)~天保十年十二月 番頭
天保十年十二月~嘉永二年二月 小姓頭
安政三年二月(比着座)~安政三年十月 番頭
家紋は「赤鳥」の変形?か、もう一つは「円相」
■遠山半兵衛は「遠山彦次郎 (南東10-16)家」の 4代・藤吉(半兵衛)である。
家紋は「隅切り角に引両」「丸に三つ引両」
遠山一族の主紋は「丸に二引き」だそうだが、「岩村遠山氏」も「江儀遠山氏」も主紋は「丸に二引両」らしい。
主家筋を慮ってややデザインを変えていることが判る。
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