![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/3b/dae27144a78c7d1b5ed93fa7804a633d.jpg)
藩主の居館・花畑邸を中心に坪井川を挟んで御城が見え、左に下馬橋(現在はやや左手に行幸橋)、右手に厩橋がみえる。
厩橋の手前左角の敷地が厩があった場所で、現在の熊本市役所が建つあたりである。右手の広い通りが通町筋と呼ばれる現在路面電車が通る、熊本の幹線道路となっている。右へ延びるのが上通、左へ延びるのが下通で現在も同様である。
この絵図は熊本日々新聞が発刊した、伊藤重剛熊大教授編著の「甲斐青萍・熊本町並画集」から引用させていただいた。
赤い〇印で表示した二つの御門がある。
右上のほうが「黒御門」とよばれるものだが、光尚公が「忍び」で屋敷を出られるとき使われたと伝えられる御門である。
この門は花畑邸の裏手にある畑や馬場に出入りする人の通用口のように思える小さな門である。
現在の坪井川河岸の散策路(長塀の対岸部)にあたる道に面しているが、随分高低差があるが、ここから密かに忍び出られたというのだから、まさに確信犯である。光尚公の死にあたって殉死した池田久五郎が道案内としてお供した。
左下の方は「欅(けやき)御門」、こちらは重賢公に関する逸話が残る。水前寺に出浮きされた際帰りににわか雨に遭遇され、「田際門(場所不明)」から入館せらる旨先觸が伝えたが、「紙面をもっての届がない」として拒否、仕方なくこの「欅御門」に廻られここから入られたという。この御門は敷地内の諸宮や築山に通じている。
この門番はのちに奉行となる、蒲池喜左衛門である。
このような逸話は色々残されているのだろうが、中々伝わってこない。此の画集によくぞ書残されたと驚くばかりである。
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