津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■周岳院殿と言う人

2022-04-19 07:25:33 | 人物

 細川忠興が愛してやまなかった末娘・萬(烏丸光賢)の生母・小也々である。
寛永12年11月19日八代で死去している。
この年の3月三斎は八代を発し江戸に下っている。7月、孫・六丸(光尚)が任官した御礼として忠利と共に登城した。
江戸で少々煩いを発したが9月7日発駕、18日京都に入った。そして京都で養生をしたく思っていたところ、「在所より急用申越候ニ付」23日京都を発している。
この在所での急用こそ周岳院が病に倒れたことを告げるものであった。10月4日に八代に入ったから周岳院に会うことが出来ている。
「明智次左衛門女ニ而御万様御妾母也、少名小也々と云、五十八歳周岳院雲山宗広」と綿考輯録は記す。
この綿考輯録の編者・小野武次郎はこの家記を編纂するにあたり、細川家の墓所がある京都紫野の大徳寺高桐院を参詣、いろいろ調べる中に「天沢院」という墓石を見付、見知らぬ号であるため和尚に問うと、鳳祥院(万姫)の御母との答えであった。
年月も同じであり、小野武次郎は万姫が高桐院に遺骨を移し墓所とし、また法号も改めたと考えたようだ。

 処がもう一つ厄介な記録が残る。光永文熙氏監修の「平成・宇土細川家系譜」である。
これも三斎が溺愛したとされる五男立孝に養母があり、これも周岳院であると言い、没年も同じである。ただし墓所は不明とある。
立孝の生母は清田氏(幾知)だが、周岳院が育てたとでもいうのだろうか。
これだけに情報だとひょっとしたらありうる話かとも思えるが、実はこの人物の出自かはっきりしている。
永井四郎左衛門女とされる。この人物は幽齋公の田邊上籠城の際ともに籠城した人たちの一人である。

こうなってくると、お手上げ状態である。どうしようもない・・・・

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