津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■菊陽町馬場楠の「鼻繰(はなぐり)」を理解しよう

2022-04-18 06:53:03 | 史料
■菊陽町馬場楠にある「はなぐり大橋」の下に、加藤清正が作らせたという「鼻ぐり」が存在する。
鹿子木量平が記した「勝国治水遣」には次のように説明されている。

    右鼻繰弐百拾五間の処は、山中を掘抜たる処からにて深井手の底は巖なり、されば白川ハ土砂多く流るる処にて
    深井手の底に居込むときハ井手岸高く険岨の処浚へ土砂杯揚る処無し、是に因て鼻繰りとて八 十ケ所程橋の如く
    にして上ハ両岸に渡る様に巖取残しその下を堀穿き井手幅より経りほそめ水上の流水を上の広きに貯へ鼻繰の下
    より激流して井手底に土砂の居付さる様 の仕法の志か、しかるに水理の意を知 らさる役人其 井手筋を見聞し時
    鼻繰の橋五十余打欠きたりされとも両岸に取残しに成し岩水行縊りて土砂居付ざるだけの御仕法残 しゆえ水行滞
    さる之右の深井手両岸は木萱蕃茂して、打閥所悉見ること成難し、所々に見えし処を視て、処の役人に尋るに右
    之如く語りし也 、今此鼻繰無くば弐百十余間井手貫流せん時は、土砂居込で水乗兼旱田多からむ、此理は無類の
    御仕法なればかかる深共手の処は石垣 にて鼻繰を作り度きものなり


■菊陽町馬場楠を流れる白川に「はなぐり大橋」が懸けられている。1998年の架橋後にその報告書が発表されたが、この論考を読むとこの「はなぐり」がどういうものであるかということが良く理解できる。
その論考を引用させていただいた。

      鼻ぐり大橋の大きい地図を見る     

“鼻ぐり”遺構
天正16(1588)年に肥後北半国の領主となった加藤清正は,熊本城築城や城下町建設の外に,“土木の神様”の異名があるように治水・利水・干拓事業等にも多くの業績を残した。なかでも白川中流域の灌漑用水路(井手)に見られる“鼻ぐり”は清正が考案した独創的な技法の代表的事例として今日に伝えられている1)
加藤清正は肥後を治めるにあたって,新田開発を目的とした灌漑用水路の建設に取り組み,熊本平野を貫流する白川の流域にも多くの水利施設を造った。慶長13(1608)年には菊池郡菊陽町馬場楠に63間(約130m)の石堰(馬場楠堰)を創設し,この堰の3門の取水門から白川左岸の台地へ送水する灌漑用水路「馬場楠井手」を完成させた。
独創的な技法が駆使されたのは馬場楠堰から約2㎞下流の曲手村から辛川村(現菊陽町大字曲手~辛川地内)にかけてである。この215間(約390m)にわたる区間では,中須(洲)山の阿蘇熔結凝灰岩の岩盤を開削し,深く掘り込んで水路が引かれた(図ー2参照)2)。一方,阿蘇に源を発する白川はその流域の8割を上流部の阿蘇カルデラが占めており,洪水の度に大量のヨナ(火山灰)が流出する。このため,白川からの導水路では泥土の堆積がひどく底浚えは維持管理上の必須作業であった。しかしながら,中須山一帯は水路底まで約20mの深さがあり,排土作業は至難な所であった。そこで,泥土の堆積を防止する仕組みとして考案されたのが“鼻ぐり”と呼ばれる技法であった。それは,水路掘削の際に岩盤の一部を仕切り壁として4~5mの一定間隔で残し,その壁(厚さ約1m)の左右交互に開口部(直径2m強:写真ー2参照)を設けて渦を発生させ,水の力で土砂を下流に排出する仕組みである3)(図ー3参照)。その水流穴が牛の鼻輪を通す鼻ぐりに似ていることから,その名が付けられたといわれている。この全国無類の仕組みは歴史的に貴重な産業遣構と評価され,菊陽町の文化財に指定されている3)。

 

 

 

馬場楠井手は,託麻郡大江村(現熊本市大江渡鹿)までの約13㎞に及び,託麻郡4ケ村,益城郡3ケ村,合志郡2ケ村の95町余りの畑地が水田化され,その生産力は3倍に向上したといわれている2)。完成時には80箇所を数えた鼻ぐりは江戸時代末期にその多くが壊されたと伝えられており,現在では26箇所が残っているだけである3)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-5 | トップ | ■周岳院殿と言う人 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史料」カテゴリの最新記事