津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

この人誰・・?町孫平次

2009-03-29 21:46:31 | 歴史
 何時の頃のものわからない、長岡佐渡宛忠利の次のような書状がある。

       九月四日之状披見候然町源右衛門養子ニ町孫平次を仕度之旨其方迄申越
       候通得其意候此段最前も承候源右衛門存分之通無余儀候間孫平次儀可遣
       候其通其方より源右衛門かたへ申遣返事次第孫平次爰元へ可指下候尤孫平
       次當所務遣候間其通を茂申渡委左兵衛方より可申候謹言
            十月廿三日            (忠利)
                長岡佐渡守殿

 これを読んで、はたと参ってしまった。我侍帳では、源右衛門に養子が確認できないからである。
■この源右衛門、旧名吉良左京進、長曽我部元親の二男である。
元和二年江戸にて忠興に召出され、三百石。長曽我部の「ちょう」を、町と改めたて名字とした。のち加増百石。江戸留守居役をつとめたが、三齋の勘気を蒙り暇を出された。その原因は光尚の正室(彌々)の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事によるとされる。三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはなく、堀田正盛に仕えた。(五百石)

             寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
        【中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
         従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事】

■源右衛門の嫡子、町三右衛門尉は忠利に召出され、四百石。江戸留守居。江戸にて病死。

■源右衛門の二男・町市之允。忠利代、寛永二年豊前国にて召出さる。知行二百石。十二年百石加増、都合三百石にて使番に任ぜらる。兄三右衛門の死により、江戸留守居を勤める。その後奉行役などを勤め、極老により役儀御断を願い免され、御番方に召加えらる。寛文六年十月病死。

   さて、この孫平次殿とは何方・・・?
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