津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雁木坂

2022-12-18 09:17:15 | 熊本史談会

             
                                             左手が京町、右下が京町からのいろんな坂が下りてくる通り
                   日本地理院地図から(縦横比3:1)   

 熊本史談会終了後、会場である熊本市民会館内のレストランで5~6人の人で食事をするのが通例になっている。
ざっくばらんな話が出て面白い。
今回はある人が、「京町の雁木坂に至る道の中程に友人がコーヒーラウンジを開店した」から、機会が合ったら寄ってほしいと仰る。
地元京陵中学出身者が、「雁木坂?知らない」と仰る。「味噌屋さんの脇の道だ」と仰るから漠然とその道は理解できる。
「梯子坂」ではないのかと思ったのだが、よく判らないまま終わってしまった。
帰宅するバスの中で、スマートホンで検索してみると「鴈木坂」がある。私が「梯子坂」と認識していた坂だ。
これは私の認識違いで、「雁木坂」が本当で「梯子坂」は別名らしい。
いずれにしろ凄い高低差を一気に解消するため(190mあたりから)の石階段だ。

 本妙寺の浄池廟前の石階段を「胸突き雁木」というが、言葉に厳しでご紹介したように、「雁木」について重賢公は私たちの認識とは真反対な事を仰っている。
上の会話をしたときに出てきたことだが、東北では雪除けの為に作られた通行の供する軒下をそう呼んでいる。
重賢公の認識とは異なり言葉の多様性も色々である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記 19日07:40
 京町にお住いのブログ「徒然なか話」の主催者様が、わざわざ現地に足を運んでいただいたようで、19日のブログに雁木坂を詳しくご紹介下さった。
この坂を下るとアパートの敷地内ではないかと思わせる道が県道・熊本ー田原坂線にでる。
そしてこれを突切ると本妙寺へ至る一本道でである。
加藤清正公をお祀りする本妙寺は、かっては参詣者でいつも賑わっていたというから、すごい急阪ながら鴈木坂のの有るこの通りも参詣の為のメインストリートであった。
私が「梯子坂」と承知していたこの坂は、まさしく梯子に例えられるような急阪である。
京町から県道へとつながるこの道、果たして現代では幾人の人が通られるのだろうか。
ずいぶん昔、西方寺坂を下り県道へ抜けたことがあるが、この坂を眺めて「恐ろしく急な坂だな」としばし足を止めたことを懐かしく思い出した。もう3~40年も前の事である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■侍の家と年越しそば

2022-12-18 06:51:36 | 徒然

 何の本に書いてあったか思い出せないでいるが、大晦日明治の小説家・幸田露伴の許に、ある人が「のし餅」を届けたという。
その人はふと気が付いて「年越しそば」をお届けしましょうかと申し出たという。
処が露伴はそれを断っているが、その理由は「あれは町人が食べるもの」と言ったというのである。
断られたご当人はそれをある友人に話したところ、それを聞いた友人達は後に「今年の大みそかには、あいつも蕎麦を食べないぞ」といって笑いあった。
大方そんな話だが奇妙に記憶している。終活で処分した本にあったように思うが、確かめようがない。

 露伴の論法からすると、「侍は年越しそばは食べないものだ」というのだろう。
果たしてそうなのか?いろいろ調べてみたがそんな話には出くわさない。
しかしそれを聞いた人たちが否定もしていないようだから、その時代の侍の末の東京人たちには「そうだ」とする共通認識があったのだろう。


 我が家では、私が幼い頃は同居していた母方の祖母が、うどんにしろ年越しそばにしろ、自分で打っていた。
長さ二尺ばかりの延べ棒があって、打ち粉をしながら伸ばしているのを幼心に覚えている。
我が家のいろんなものの味付けは母に言わせると「細川流」だという。高田老松町の細川邸内の職員住宅で過ごしたことによる。
昭和19年熊本に帰ってきたが、7歳年上の姉は熊本は餅が丸餅であることに驚いたと言っていた。お江戸はどうやら「のし餅」だったようだ。

最近の我が家では、おせち料理を11月中頃には注文しているが、年越しそばがついてくるお店に頼んでいるから、奥方は特別そのための買い出しに出かけることもない。

 ふと、細川護貞さまの御著、「怡園随筆‐茶・花・史」に何か書かれていないかと思って眺めてみたら、護熙様・忠煇様・明子様の兄弟妹お三人が熊本旅行に出かけられ、大晦日に帰ってこられるのを迎えに出かけられた。
そして、ご家族で年越しそばを戴いたと記されている。
侍といえどもお国ぶりがあるということであろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする