津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■訃報・近代史家渡辺京二氏逝去

2022-12-25 16:15:08 | 人物

 在熊の近代史家・評論家の渡辺京二氏が亡くなられた。水俣病問題などにも深くかかわられ、作家・石牟礼道子氏などと共に共に行動を共にしてこられた。
石牟礼氏が亡くなられた後も、お元気に活動をしておられたようだが、92歳というお年を考えると天寿を全うされたかと思う。
私は随分氏の作品に親しんだ。氏がその作「神風連とその時代」のなかで記されている次の記述が大変記憶に残る。
「いわゆる郷土史家たちのみみっちい党派心がつねづね不愉快でならない。肥後にはいまだに小楠や実学党に対する隠微な党派的反感が残っている」
言わんとされることはよく理解が出来るが、いまでも学校党の流れを引くような保守的な土壌は、小楠を仰ぐ勢力が一時的に天下をとったものの、その土壌を天地返しをして豊かな土地にするまでには至らなかったように思う。
私は未来永劫この熊本の政治的風土は変わる事はないのではないかという悲観的な思いを持っている。
渡辺京二氏の著作を通じて、その深い精神に触れたことはまことに有難いことであった。
心から哀悼の誠を捧げたい。天上世界で又石牟礼氏との変らぬ交流が続けられることであろう。合掌。

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■「奥田権左衛門家由來記」を読むー6・了

2022-12-25 12:34:30 | 人物

                       
          一同人ニ男子早世と系図ニも記有之候得共按田噂ニハ
        堕胎ニ而直ニ産屋ニ而死去之由此儀津崎ニも承候処同意の
        噂ニ而夫ゆへ俗名とても無之と両人ゟ承候事
       一同人妻冷光院ハ十七歳ニ而幸田原屋敷ニ而之婚礼有之
        廿歳にて産後の煩ニ而於同所死去之由高麗門外禅定寺ニ
        墓有之由ニ付罷越役僧■林に致對面石塔等致
        吟味之處む相違有之尤位牌にハ朱三計の紋有之
       一同人後妻無之妾腹ニ女子有之五歳計ニ而高麗門
        外之隠宅にて病死之由
       一元祖二代目三代目四代目権左衛門病死之節の年齢今まて
        存知不申候處少右衛門方の家記自分方の位牌ニ有之候
        間此節致吟味系図にも書加之事

                 (以下略・・了)

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■いただけぬ町名を考える

2022-12-25 08:29:36 | 熊本

 1、しょうべん町・2、こえとり坂・3、いんころし丁・・・熊本の町(丁)名や坂の名前にいただけぬものがある。
これらはそれぞれ漢字になおすと小弁町・声取坂・犬殺し丁という具合になるのだが・・・

1、は少弁という漢字が充てられているが、本来はこの辺りに菖蒲園(しょうぶえん)があったからだという説がある。
 熊本弁はローマ字にしてみると、或る音が抜けることで成立すると理解できる。syobuen の u が一文字抜けるとまさに「しょうべん」になる。
 少弁とは太政官で弁官と言われる位の大・中・小の少弁官によるが、これがこの地とかかわりがあるとは思えない。
 私は菖蒲園を勝ちとしたい。

2、は現在の安政町4丁目の安政町通りの中程からから北に抜けていた路地で現在は存在しない。
 これは大変好意的な解釈で「声取」という字があてられているが、白川沿いで謡や詩吟の稽古をする人があり、川の瀬音に声が搔き消されたからだという。
 一方「肥取坂」という意味も隠されていて、安政年間には安政橋も架橋され、下肥を積んだ荷車がこの橋を渡っていったことに因るのではないのか。
 私は肥取坂が本当ではないかと思っている。

3,は普通に「いんころし丁」が良かったように思う。それでも説明が必要だが、当然消えた名前である。
 熊本地名研究会の小崎龍也氏の解釈によると、淀川周辺でつかわれた平底の小さな船(飾磨舟)のことを「いぬころし」と言ったことによるとある。
 出処は熊本ではなかった。
 inukoroshiの u が抜けて「いんころし」となった。 u が抜けて熊本弁的になるのは、「小弁」と同様である。
 熊本の繁華街上通の中程、肥後銀行の反対側から坪井川の蛇行の突端部に至る割と広い部分で現在の熊本大学・付属幼稚園の敷地が大部分を占めている。
 問題はこの場所が何故飾磨舟と関りがは有るかということに就いては、小崎龍也氏は、この「いんころし舟」を管理する役職の人たちが住んでいたのだろうと
    推測されている。
 水害が度々出ることにより、大きな屋敷や寺々ではこの船をそれぞれ持っていた。
 新町の某寺の床下から数年前にこれが姿を現し、処分寸前のところをある人が見つけて是を思いとどまらせて、自ら大工さんを手配して修繕された。
 水害が出た時には、女子供の二三人は乗れるくらいの小さな船である。
 

 

 

 

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