三太郎 (三太郎峠越の旅の大変さを窺い知ることができる)
ごじつ
馬は九月末の午日に照らされた津奈木太郎の長坂を汗をたらして上つて行く。
国道が改修されて馬車も通ふ程になつたが、津奈木太郎は矢張津奈木太郎である。豊太閤
の薩摩攻入にも、西郷軍の熊本進出にも、此峠を越したのだ。頼山陽なども薩摩行に此峠
あそのさんみゃくことごとくなんほん くわいほうすればうんらんでふらうのごとし
を越した。「阿蘇山脈盡南本奔、右折羊腸扼海門、回望雲嵐如疊浪、何邊應是五箇村」の
いうせつやうちやうかいもんをやくす なにのへんかまさにこれごかのそんなるべき
つなぎれいをこゆ
詩は、「踰綱木嶺」と題して、此山上の吟である。津奈木では深水玄門と云ふ醫の大きな
さいもんくれにむかつてこうとうをだつす わがためにしなんせよなんさつのみち
蜜柑の樹を前に擁した書斎に宿つて、「柴門向暮脱行騰、踏盡肥山青幾層、爲吾指南南薩
ふみつくすひざんのせいいくそう
きつそういちやしゅうとうをきる
路、橘窓一夜剪秋燈」と吟じた。水俣では舊家深水氏や本家徳富に宿り祖父の家にも來て
額など書いた。同姓の徳富才蔵と云うふ二十歳の若者に、「俺も此頃書物を書いて居る。
ここら おまえたち
此處等の事でも何でも書いたものだ。出來たら卿達にも見せやう」と云ふた。それは旅中
かいさん
も行李に入れて泊り泊りの暇々に改刪の筆を執つて居た日本外史の事であつた。山陽至て
かたなぶくろ
手輕な男で、道中も二本差は面倒と脇差を二本差し、革の刀嚢の尻を長く出して刀の様に
りやうかけ おさ
見せかけ、人前もない所では其脇差も大抵柳行李両懸に蔵めて、無腰で歩いたさうだ。
くちずさ
此津奈木太郎なども先生勿論丸腰で彼絶句を口吟みつゝてく/\歩いたのだ。三十九歳の
薄汚ない顔をしたチヨン髷の先生が、約百年前、文政元年陰暦八月末か九月初と云へば丁
のが
度今頃の夕日に見たもの逭さぬ鋭い眼を細めつゝ草鞋てく/\下りて來る姿が眼に見る様
かへり
だ。薩摩の歸途も此峠を越して佐敷から熊本に出たと云へば、此山の土には大分先生の汗
も滲みて居るのだ。
やつと峠に來た。
下り坂になる。馬車の上から見下ろすと、西の谷間に海から少し離れて小さなが煙を
さと
立てゝ居る。湯の浦と云ふ郷である。余の母の父が昔惣庄屋して居た處だ。母の故郷は熊
そこ
本の東四里上益城郡杉堂の山村であるが、其處の郷士なる母の父は、藩命により此葦北北
ごうり ゐ てんば
の湯の浦に郷吏として家族を將て赴任したので、母も十歳前後のお轉婆盛りを其兄や姉妹
達と此海村に過ごしたのである。母の父が津奈木太郎の麓で惣庄屋をして居た頃、南の麓
では父の父が惣庄屋をして居た。廉直な北の人と闊達な南の人とは、役目の上で自然懇意
になつた。山を越ゆれば唯二里、舟で廻るも三里に過ぎぬ。すぐれた欧米の母に見る様な
智慮、才氣、根気を具へた北の妻と、頗る勝氣な南の妻とも自づから相識る機會もあつた。
ほつき
山北の家族は其内轉任となつて北歸したが、十年後父母は一つになつた。だから此津奈木
太郎山は、父母の為には妹背縁結びの山で、俺は此山から生れた山男だ、と云ふと、妻も
鶴子も琴子も馭者もどつと笑ふ。
下り坂の脚早く、馬車は駈けに駈けて早くも佐敷町に下りた。水俣から五里、日奈久へ五
たど すてんしょん
里、葦北郡役所もあつて小繁華な港町である。東へ二里餘辿れば球磨川端の白石停車場に
出られる。町を北へ出ぬけて、宿はづれの立場で馬車を乗換へる。時計は大分午を過ぎて
なまぐさ にうめん
皆空腹の顔をして居る。有り合せの蠅だらけの腥い煮麺を啜り、鶴子には臭い黒餡をぬい
て饅頭の皮を喰はす。
佐敷の馬車は立場を出るとやがて佐敷太郎の長坂にかかつた。下へ下へ沈んで行く佐敷の
町を下に見て、馬車は上へ上へと電光形の長坂を上つて行く。此佐敷太郎は三太郎の中間
には居るが、長いことは第一の兄である。余が十六の初夏であつた。兄は已に家塾を開い
やうさん おも たすけ こだね なつご
て居たが、家の生活は養蠶を重なる資として、蠶種なども少しは賣つたので、夏蠶の種紙
を葦北に配る役目を一つは面白づくからなまけ者の余が進んで引受けた。熊本から五里は
陸路、山陽先生も百年前にした様に松橋から小さな和船に便乗したはよかつたが、これか
ら二里北の田浦へ下りると云ふに、小つぽけ一人と侮つて眞夜中に郷から餘程隔れた淋し
い■(山偏に鼻=はな)に上げて、さつさと帆を上げて往つて了ふた。俊寛然と荒磯に取
つきあかり うらわ
りのこされた余は、月明を幸ひ、不知案内の浦曲を一里餘も磯傳ひすると、向ふの方から
鶏の鳴く聲が聞こえた。一番鶏だつたのである。それに氣を得て、かねて聞いて居た遠縁
たた かや
の寺を捜し當てゝ敲き起し、事情を話して冷たい粟飯の馳走になり、蚊帳を釣つてもらつ
かわず
て蛙の聲を聞き々々眠に落ちた。明くる日、昨夜の禮を云ふて立つ時十銭置いたら、草鞋
さて
銭に、と押戻して住持は取らなかつた。偖田浦に配るだけの蠶種を配つて金を受取り、残
の種紙を風呂敷包にして斜に背負ひ、此佐敷太郎を北から上つて佐敷へ下りた。梅雨季の
ろう
雨は降らずにかん/\照る日であつた。片手に臘引傘をわざとたゝんで提げ、片手は上り
やまもも
口の茶屋で買ふた楊梅を袂から出しては喰ひ、出しては喰ひ、此長々しい佐敷太郎を佐敷
へ下りた。佐敷でも蠶種を配り、津奈木太郎を越してつなぎで配り、水俣へ往つて八十六
の祖父を見舞ひ、雨中を二晩泊つてまだ降る中を舟で歸つた。松橋から上がると、連日の
大雨で、大水が出て、國道の上を舟が通ふて居る。宇土から川尻まで、二里の間、水の中
から出て居る電信柱を目當に、竹杖の先で足場を探り、時には胸の上を越す水を渉つて、
それでも幸ひに落ちては居なかつた緑川の橋を渡つて先は無事に歸つた。大切に懐中した
もみぬか
蠶種代の壹円札、五拾銭札はぐた/\になつたのを、籾糠に吸はして、破れはせずに濟ん
だ。三十年前の事だがまだ昨日の様な心地がする。
(次回へ)