津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 鳥--6

2011-06-23 21:58:04 | 旦夕覺書

一、今の世に善人といわるヽ人上下共に有兼申候と聞申候 たとへは少の事にても扨々能仕候の能申
  たるのと誉られて自慢顔にて居申者多く候 世々代々家々數萬人の勤たる路にてたとへ見聞いたさ
  す共おのすと工夫にて仕候事も聞及ひたるの見及たるなとヽ申候 自慢顔にて居申よりは一位能き
  人柄と存候 功譲ると申古賢の傳は右の心得たる人まれには數十年江戸御供にて上下の侍中に出
  合咄申候は少の事にても其身は自慢顔にて咄申候 今度江戸中に壱度も御奉公をかヽし申さす熊
  本にても個様/\と咄申人多有之候 小者中間下々一年給銀取候末々の申様成る事と拙者は歩の
  御使番勤申時分より心の内には扨々あの男は物頭にも被仰付先祖代々御知行をも被下候者のさ
  もしき心底成と存候へ共能奉公人と申に成たる儀多く御座候 右之通の者忌かヽる軽き親類なとは
  隠し忌の内にも勤申を承及ひ申候 或は生れ付不気根に病よわき人は其時々には引籠養生仕快成
  候て勤可申事に候 尤虚病にて夫程の事にて無く度々御奉公を勤不申候者も御座候へとも夫は人外
  と存候へとも必々左様の者は不實故あなたこなたと軽薄仕却て實儀に勤たる者より能く成り候者有
  之候 併天道明らかに御座候へは必々後には悪敷成申候 たとへは御意に叶候へはわき/\より
  も其節々誉申候けいはくの者の不實は天の御にくみにて必々後には悪敷成候事歳寄候へは能く思
  ひ合候事多く候 此後各も年若く候へは随分心かけ各より末々に筋目有之者或は實儀にてうすもれ
  たる者は引立被申候心持第一に我身の命も天明候へは願てもならす貧福も同前にて候 右の通の
  心得は天道に叶ひ差當ては其人の為能人にて候へは御為にも成り申候 當世は大形我心に叶たる
  者をは色々才覺にて能く成り申候へとも其人にあらされはうかへる雲のことしと申聖賢の詞の通各
  も定て心底には思ひ可被申候 拙者事に値へは數十年の儀覺申候 其上に先御代の咄も承傳候
  日本には聖賢と申は人王以来少く御座候也 又明大将と申も少く御座候つる 人の目利は聖賢なら
  てはならぬ事と承り申候 うかへる雲のたとへを能々工夫可被仕候 必々浦山敷被存ましく候 不實に
  て欲心深き人は必々天罰承申事定りたる儀に候へ共或は不仕合者の又あれさへ如斯なとヽ當世の
  人は大形天道を恐れ不申不實は目に見へす利發口利口に當時/\間合せ申者を能人と沙汰仕候
  事三十四五年此かた別て多く候 江戸表の儀承傳候へば昔を御好被成候と聞候間次第/\に實儀
  成者と不實者とあはられ可申と人の非をかくし申事道にて人の善をは少の事にても顕れ申様にと心
  得候事専用と見へ候得とも當世はうらおもてにて我身は不及申他人も気に合候へは非と存なから
  色々能申直し候 しかし人をめくむ心にて候へは非を改善に移り候はヽ天道も御ゆるし可被成哉其身
  聖賢にてなく愚人の目利に合兼可申候 實成人は必働不申候 侫奸に必發明利發者と見へ申大にて
  は家をたをし小に人をたをし申候 東照宮の御遺訓に大賀彌四郎と申人御目利違にて信長公へ御附
  御悔の儀委細に書て有之候 左候へは末々の人の目利相違候事有間敷物にてなく候兎角人をめく
  むと申事天道の好事と申候へはめくむ心にて目利相違は其人により御ゆるしも可有候 主人之為と
  申て大形に其身/\の為に成事多く有之故天罰多く有之と見へ候

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一、妙解院(忠利公)様御代に御國中の竹の皮を請申銀子差上可申と京都の町人とも以才覺達御耳熊
  本にて御郡奉行其外御勝手方の役人に如此京都の町人さへ申上候に郡を御預被成候者共御為を
  おろそかに存候故心付不申と御叱り被成候由 其趣何某とか申仁申上候にいかにも心付申候へと
  も當分銀■差上申は御為めの様に聞へ申候へ共以後に御為に不成候 其譯は御國中の竹のかはは
  其處の村々に老人或は病者にて子供に懸り居候者何百も御座候 其者取候而すけ笠同前に笠を拵
  へ或は草履に仕渡世を送り申候 子供の助けに成り申候 町人に被遣候てに其渡世おくり申者子供迄
  も迷惑におよひ候はヽ夫/\御吟味の上にて大分の米不被為拝領候はヽ成間敷候 他國へ聞へ候
  ても御外聞も不宜と奉存候故其分にて召置候由申上候へは扨々尤成儀と御誉被成候由宇野理兵
  衛郡奉行寄合の刻此咄承り候て咄被申候 誠に此事を存候はに諸事に付て如斯心持有可之事と書
  置候 寔に信實に御為を奉存心より顕れ申候先見の明と有之聖賢の言に後年の儀を考申事と申候

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Congratulations

2011-06-23 18:57:40 | 徒然

           JR九州の九州新幹線TVCMがカンヌ国際広告祭で金賞受賞!

           http://www.youtube.com/watch?v=g5kU6mImUh0

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御代々様御参勤御帰国 (2) 忠利公

2011-06-23 08:04:43 | 歴史

忠利公
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9

忠利公御参府御帰国之年号等 御旧記不詳 相知居候分如左

一、慶長五年正月廿五日大坂御発駕 江戸為證人御越 于時御十五歳
一、同九年夏 三齋公於豊前御病気御大切付 忠利公初御暇被仰出豊前御下向 忠利公御證人後始而御帰国
一、慶長十年四月従小倉京都御越 此時伏見ニ被為在候と見へたり
  此春秀忠公御上洛 四月将軍宣下付而也
一、同十一年御在府 六月十日御暇被仰出 豊前仲津御越
一、同十四年御在国 此年四月於仲津御城御婚姻
一、同十五年春 諸家様御一統尾州名護屋城御普請御手伝 忠興公被蒙仰 忠興公名護屋御越
  御勤後忠利公御出御代御勤
一、同十六年三月 家康公御上洛付 忠利公京都御越 御迎
一、同十九年春、従仲津江府御越 十月御暇被仰出 江戸御発駕筥根迄御越之処 大坂之難御承知
  御願御帰府 同十一月秀忠公御随従大坂江御越 此時大坂調和儀成
一、翌元和元年春御暇被仰出御帰国
一、同年夏再ひ大坂御陣付 四月家康公秀忠公大坂御発進 依之忠利公四月晦日仲津御出陣
  陸地より御進備前国片上迄被遊御押候処 五月七日大阪落城之由被遊御承知 片上より御人数御
  返し直伏見御越 五月十五日家康公秀忠公江御謁 八月秀忠公東都還御付随従御着府
  同年冬御暇被仰出御帰国
一、同二年三月駿府御越 廿四日家康公秀忠公御拝謁 四月御暇被仰出候得共御滞留 此年四月
  十七日家康公薨御 秀忠公従駿府東都還御付 忠利公御随従江戸御越 此年御暇御帰国と見へたり
一、元和三年春 従仲津江戸御越 此年秀忠公御上洛付き御先京都御越 十月江戸御越
一、同四年十月御暇被仰出候処 有御故而御滞留 十一月江戸御発駕 十二月十五日仲津御着
一、同五年五月八日秀忠公御入洛付忠利公自仲津御越 同年秋冬之間京都御発駕江戸御越
一、同六年十一月廿八日御暇被仰出御帰国 此年冬忠興公於江戸病気付忠利公急仲津御発駕
一、同七年正月二日江戸御着 即日御登城御拝礼 同七日御家督御登城御拝礼 同年夏御暇被仰出御
  帰国 此年忠利公小倉之御城江御移
一、元和七年十一月小倉御発駕 十二月十四日江戸御着 同十六日御拝礼
一、同九年夏 秀忠公御上洛付忠利公御先京都御越 秋御暇被仰出京都御発駕 小倉御帰着
一、寛永元年 元和十年改元 諸家様御一統尾州大坂城石垣御普請 忠利公被蒙仰候付 三月六日小倉
  御発駕 十七日大阪御越 御普請場御巡覧 四月八日江戸御越
一、同二年四月御暇被仰出 五月廿八日小倉御着
一、同三年五月十三日小倉御発駕京都御越 九月家光公御参内付御迎御扈従 同九月廿六日上使
  吉田之御屋舗御出御暇被仰出 十月十七日小倉御着
一、同四年二月五日小倉御発駕 同廿八日江戸御越 三月朔日御拝礼 此年冬御帰国
一、寛永五年十一月小倉御発駕 十二月十八日江戸御越 廿一日御拝礼
一、同六年冬御暇被仰出 江戸御発駕 十二月五日小倉御着
一、同七年十一月五日小倉御発駕 同晦日江戸御着 十二月朔日家光公江御謁 同六日秀忠公江御拝謁
一、同八年御在府
一、同九年正月御暇被仰出 二月十日江戸御発駕 三月四日小倉御着
一、同年依召九月十三日小倉御発駕 十月三日江戸御着 東海道御旅行 同四日肥後国拝領 同八日右
  為御礼登城 同十二日御暇被仰出 同十五日江戸御発駕 東海道御旅行 十一月十日小倉御着 十二月五
  日小倉御発駕 同九日肥後御入国 熊本城御入
一、寛永十年九月十二日熊本御発駕 十月十日江府御着 同十三日御拝礼
一、同十一年家光公御入洛御参内付而 忠利公御供奉被蒙仰 五月御暇被仰出江府御発駕 同廿一日
  上鳥羽御着七月十八日御参内之節 忠利公御衣冠而四足御門御候 同年閏七月廿九日御暇被
  仰出 八月朔日上鳥羽御発駕 同十三日熊本御着
一、同十二年正月十六日熊本御発駕 二月十四日江戸御着 同十八日御拝礼
一、同十三年五月御暇被仰出江府御発駕 六月九日熊本御着
一、同十四年三月廿日熊本御発駕 閏三月九日江戸御着
一、同十五年嶋原一揆付 依御願正月十二日被為召 即日江戸御発駕 同廿五日熊本御越 御城
  不被為入 立田村より白川御渡河尻江御越御乗船 翌廿六日己刻直嶋原御着 賊徒御討捕之 二月
  廿七日原城落去 三月二日有馬御発即日熊本之御城御凱旋
一、此年三月廿六日熊本御発駕 同廿九日小倉御着 諸御大名様追々御到着 四月四日上使太田備中
  守様今般於有馬忠利公昼夜御郡労御感之旨御演述之 即日忠利公小倉御発駕 小国通南郷御入湯
  同十日熊本御着
一、同十六年二月廿六日熊本御発駕 三月廿三日江府御着 四月四日御登城御拝謁 御前近く被為召
  於有馬被為尽御精力候段上意 
一、寛永十七年四月御暇被仰出 五月十八日江戸御発駕 六月十二日熊本御着
一、同十八年三月十七日於熊本御逝去

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