津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

江戸藩邸を調べる

2011-06-19 21:42:40 | 徒然

 きょうは六月の史談会例会。会員の皆さんの報告の中で、会員諸氏の研究や活動が、いろいろ活字になっていることのご報告があった。それぞれ興味深く掲載されている冊子など取り寄せ、完読したいと思っている。
会の終了後近くのホテルで昼食を頂くのが恒例なのだが、ここでも談論風発楽しい時間である。
隣の席のF氏が一枚のCDを取り出し、見てくださいと私に託された。細川家の江戸藩邸の事を調べておられることを以前から話を伺ってはいたが、どうやらその成果がこのCDに収められているらしい。相当のページ数に及んでいることは伺ってはいたが、帰宅後いざPCで拝見すると、その量のすごさに驚いてしまった。時代がかった我がPCはそのページ数を確認できるまで数分を要したのだが、なんとワードに打ち込まれた原稿は192ページに及んでいた。10数ページをPC画面で読んだのだが、これはプリントアウトして読もうと取り掛かったら数枚で用紙切れ、トナーも準備して明日又チャレンジすることにした。
改めて今PC画面で読ませていただいているが、なんともすごいものである。良くぞこれだけまとめられたと、ただただ驚き入っている。細川本藩、宇土細川藩、新田藩、谷田部藩、加藤肥後藩、人吉相良藩と多岐にわたっているが、余りにも量が膨大であるため何が出てくるのやら、玉手箱を開けるような楽しい気分である。現況皆様にお見せできないのが残念である。

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細川九曜紋と七つ紋

2011-06-19 20:59:57 | 徒然

 大名細川家の七つ紋
     http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_j.html
 細川宗孝
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AD%9D

 二つのサイトからお判りいただけるように、細川九曜紋と七所紋は宗孝公の江戸城内における刃傷事件以後のこととされるのが定説となっている。類似の九曜紋に見間違われないようにすること、また衣装の紋所を二つ増やして違いを際立たせることを念頭に於いてのことであろう。
今日の【旦夕覺書・鳥-2】でご紹介した堀内傳右衛門の記述によると、宣紀公(宗孝公父君)の時代すでに七所紋が流行し始めていたことが伺える。宗孝公の事件以後とする現在の説がすこし揺らぐことになるが、事件をきっかけに家臣の中でも定着したと理解すればいいのであろうか・・・・しかし定説を覆すようなこういう記録に遭遇すると、まさに快感である。

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「旦夕覺書」 鳥--2

2011-06-19 08:59:15 | 旦夕覺書

一、京極丹後守殿に今野一郎兵衛と申千石被下丹後殿隠居被成候て安智と申候迄勤居候十二三之
  頃南禅寺にかむろにて居申を丹後守殿御所望被成被召仕候 加藤式部殿御改易の砌被仰渡外へ
  委細知れ兼候故右一郎兵衛は在江戸の一類多く有之候を丹後殿能御存知にて候ゆゑ其方は一類
  多き事に候間今度式部少へ被仰渡之趣とくに承て帰り申上候へと御申付候て初て使者に出申候
  並無出頭ゆゑ常々そねみ申者多く初而使者に出候間つくし申かしかられ可申などヽ批判仕候内に
  罷帰候て直に罷出御尋之通御改易之被仰渡江戸中之沙汰一々不残申上候へは丹後殿機嫌悪敷
  其儘閉門被申付候 其時に右の批判仕候者共夫見よ常に出頭にて初め使者勤閉門仕候とて打寄
  /\笑ひ申候由 四五日程有て例年茶の口切の時分いつも家老相伴に出候迄にて外に出候者は無
  之に右の一郎兵衛罷出候へと被申付京極之家に傳り申刀を御取寄候へは皆々承及手討に逢申候
  と其身も存罷出候由 扨家老壱人居申處に其外用人共歴々御呼寄被申聞候は今度加藤式部殿御
  改易之被仰渡委細御聞不被成候故何も存之様に一郎兵衛儀は江戸へ一類多く有之故世上之沙汰
  能々承り候て申聞候へと申付候處に式部少事第一侍共之召仕様悪敷或は暇を遣候様なる者は切
  腹申付切腹可申付者は成敗仕尤領國之仕置も悪敷有之候へども第一は家頼とも被召仕様悪敷御
  改易と沙汰仕候 扨此次には御前之事を式部同前に世上沙汰仕候由申聞候に付我等も風と腹立候
  故閉門申付候へとも能々致了簡候へば扨も/\ういやつ慥成者と存候 尤我等家にも武功之者共
  品々多く家代々の者も多く用に立可申と存る者も候へ共唯今迄我等身の上の善悪申聞候者壱人も
  無之候 此後も随分心底を不残一筋に勤申候へ 是は皆々存たる我等先祖代々相傳の刀にて候へ
  とも今度の褒美に被下候由にて御加増にて千石に御申付候由 幼少の時は皆鼻をたれ候故成人に
  て出頭の時もはなたれ/\と申何もそねみ申候由其時節世上に知れ一番鑓一番首は多き事に候
  へ共其上たるへき批判仕候 無双の忠臣と申たる由於江戸上月八右衛門所にて咄を承候而書付置
  候 右之安知老は京都に御座候て御子息丹後殿は私初江戸之刻御改易上屋敷大名丁は酒井左衛
  門尉様御幼少の時小五郎様と申時御拝領被成候能覺申候

  京極丹後守(高知)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5
  加藤式部(会津騒動) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E9%A8%92%E5%8B%95

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          肥後拵えの原型といわれる忠興所用の「六歌仙」(三十六歌仙とも)
          八代に於いて忠興が家臣六人を手討ちにした事に命名の由来があるという。

一、三齋公八代に被成御座候刻紀伊大納言様より申来候は御老躰にて御申兼被成候へ共此刀は加
  藤主計頭清正より御もらひ被成候刀にて御座候 拵古るく成り申候間御物数寄にて御拵被成被下候
  へ 御慰にも成候へは御本望之由にて被差越候由八代町中古き鍔なと御取寄被成御物数寄にて御
  拵被成被遣候由三浦九郎兵衛 三齋公御兒小姓にて被召仕候 先年在江戸之砌遠坂関内殿小屋
  にて咄申候處旦夕覺書付置候 近年も細川和泉守殿に松平越中守様御相役の時に和泉守殿は御
  家の事に候間 三齋の物数寄も御存知可有候へとも御拵見候へは當世にて候 拙者所へは 三齋御
  物数寄大小の拵三通迄致所持候 寫し拵進可申との儀と江戸にて承及申候 定て其通と存候 唯今伊
  豆守殿御家来共存候拙者覺申し候而も五十九年以前に初江戸にて参候 其時分は御家中うね打と
  申候て下緒何れも上下の侍中下ヶ申候 京伏見すあゐの女まても細川の御家中斗と申候 其外は
  大方唯今御座候かいの口其外色々時々はやり申下緒にて候 横山九郎右衛門御腰奉行の時 
  綱利公むらさきのうね打ち御下緒古きをもらひ小サ刀の下緒に仕に今能仕召置候 唯今の若き衆は
  うねうち見申間敷候 右之通に御座候 右之通に御座候へは刀脇差の拵さへ當世に成申候 其後細
  川丹後守殿長岡筑後守殿なと江戸にて見申候へは大小ぬり鮫多御座候間舎人殿なとも後にはぬ
  り鮫多成申候 御幼少の時の御拵御柄鮫なと拂に出申候 私も取申候 不残塗鮫にて御座候 大木隼
  人殿御小姓頭之時御玄関前にて見申に薩摩守様・陸奥守様・加賀守様御腰物皆々塗鮫にて金拵
  は見へ不申候 赤銅多きと被申候 加賀守様御供衆いつも皆其近所に居申候心付見申に四人宛腰
  かけに居申内壱人脇差白鮫金拵にて候 三人は赤銅拵にて同し人度々出合見申候 唯今の 
  太守様宣紀公先年泰勝寺にて見申候御刀塗鮫にて扨々目出度事と乍恐奉存候つる 役所も他家に
  ては細川家ちらし紋と申候由村井源兵衛事御家に参候て七所紋付申御家中付申さぬ男を事の外笑
  ひ申候 有吉殿小笠原は昔より七所紋被申候 能覺申候 拝領多く候故其外之衆自分之紋七所に付
  申たる衆すくなく村井か笑ひたるも尤御先祖以来の御紋さへ失念と見へ申候 其外の失念は尤也

   うねうち: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%92

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