先日、NHKテレビの特集で
「人生の終いかた」という番組をやっていた。
ガンで余命○○年といわれた人の「終いかた」。
70代、80代、なかには幼い子をもつ30代
の若き男性もいた。
見終わって思うことはドラマや映画のように、
「ありがとう」「私の人生は幸せだったよ」
等と涙をながし、手を取り合ってむせぶような
シーンは無かったこと。
明日は昨日のつづき、日常の連続のなかで
死がおとずれ、その日常が断ち切られるという
印象がつよかった。
生と死は隣り合わせなのである。
ならば、突き詰めると、こういうことになるか。
「毎日いかに生きるかが、いかに死ぬかにつなが
る」
詩人の茨木のりこさんは一人で亡くなった。
(2006.2.17 享年79)
いわゆる孤独死である。
訪ねてきた甥が見つけた。
遺書が残されていて、こう書いてあった。
≪このたび 私 くも膜下出血にてこの世をおさらば
することになりました。
これは生前に書き置くものです。私の意思で、
葬儀、お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の
品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけど存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出
して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊か
にして下さいましたことか……。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて
頂きます。
ありがとうございました≫
いかにも茨木のり子らしい、簡素で毅然とした
別れのことばである。
そこには孤独死なんて陳腐なことばは似合わな
い、「死」をたんたんと受けとめる彼女の「生」
の最期の表現があるのみである。
※ 『清冽』 後藤正治著 中公文庫