別法に随って法識の名を得る。
「或能了別法独得法識名」(『論』第五・十六左)
この科段の読み方に二通りあることが『新導本』p212に述べられています。別法の義と別識の義になります。
- (1) 別法の義 「或は能く別の法を了すれば、独り法識という名を得たり。」
- (2) 別識の義 「或は能く法を了別すれば、独り法識という名を得たり。」
「能了別法に二説あり、一は別の法、二は別識なり。然も初は本義なり。第一説訓じて云く、能く別の法を了す。謂く見分能く不共別の法処を了す。別法とは相分なり。第二説訓じて云く、能く法を了別す、謂く第六見分の法処を了別す。」
本義は別法の義になります。別法の義というのは、第六意識は十二処中の第六の外処(第六識の認識対象は、六境中の法境であり、これは十二処中の法処であり、六外処の中の五外処と別している。即ち五外処とは別法であり、法そのものをもってその名を法処という。)のみを了するので、この別法に随って法識と名づけるのである、と。
外処(げしょ) - 外六処(げろくしょ)と同じ。十二処の中の自己の外にある六つの処。六つの認識対象である色・声・香・味・触・法をいう。所縁となるもの。所依となるものを内処という。法処以外の五外処も法ではるが、五外処は、個別に名をもち、それぞれ色処・声処・香処・味処・触処といい、処とは認識対象であることから、色境乃至触境である。
「論。或能了別法獨得法識名 述曰。謂十二處中別名法者。謂第六外處。別名爲法不與餘境共同名故。此之別法第六能了。從獨所了以得彼名。故唯第六識1若法識也。亦從不共得法識名。此能了言即是見分。分別之言即是相分。非謂別上有了字故遂言了別也 或彼法處六能了別獨名法識。即了別言唯在見分。亦有此義。然不共名別。是本義意。」(『述記』第五末・四十九左。大正43・416c~417a)
(「述して曰く。謂く十二処の中に別して法と名づくるは、謂く第六の外処なり。別に名づけて法と為ることは、余の境と名を共同せざるが故に。此の別法をば第六能く了す。独り所了(認識されるもの)に従って以て彼の名を得。故に唯だ第六識を法識とのみ名づくなり。亦不共なるに従って法識の名を得たり。此の能了(認識すること)の言は即ち是れ見分なり。分別法の言は即ち是れ相分なり。別の上に了の字有るが故に、遂に了別と言うと謂うには非ず。或は彼の法処は六能く了別すれば独り法識と名づく。即ち了別の言は唯だ見分のみに在り。亦此の義有り。然るに不共なるを以て別と名づくる是れ本義の意なり。」)
五処とは別の法を第六識のみが了するので、第六識を法識と言う、と。これが別法の義であり、本義とされると説かれています。
「故に六識の名は、相濫ずる失(とが)無し。」(『論』第五・十六左)
とまとめられています。